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月の石

§ 「長雨の後に君と」  六十二


 あーびっくりした。
 まったく、最近の俺はおったまげることばっかりだ。
 香と言い、秋津島さんと言い、俺の常識を越えることばかりするんだなあ。
 ・・・それを言うなら、緑川先輩も・・・
 俺は一瞬、ため息を吐きかけて慌ててそいつを飲み込んだ。そんな素振りを見せたりなんかしたら、せっかく立ち直ってくれた秋津島さんがまたまたうるうるしてしまいそうで要注意だぞ。
 それにしてもだ。
 
 「ご乗車の皆さま、毎度じょうてつ室蘭バスをご利用いただきましてありがとうございま~す。 ご乗車の皆さまにお知らせいたします。 7月10日に施行されました国家緊急省エネ法に伴います節電協力のため、バスの運行時刻表を変更させていただきました。 お客様におかれましてはご不便とは存じますが、何とぞご理解とご協力をお願いいたしま~す」

うーん、相も変わらず芸のない節電アナウンスばっかり垂れ流してうんざりだけど、こうして秋津島さんと隣り合わせで車上の人になるなんて未来を俺は、果たして予測できただろうか。
 すごいことだぞこれは・・・うん、凄いことだ。
 「君のおかげで、本屋へ行く必要が無くなったなあ」
 傍らで、嬉しいことに、さっきよりは少しだけ親しげに秋津島さんが声をかけてきた。
 「水草のことなら何でも聞いてよ」
 俺は応えた。
 「うん、それじゃあもうひとつ」
 「うんうん」
 「センチビートっていうのも水草の仲間なのかな?」
 「え゛?」
 な、なんで?なんでそうなる?
 「センチビート?」
 恐る恐る、俺は聞き返した。
 ついさっきまで可憐な水草達のお話しだったっていうのに、何でまたそんなおどろおどろしい領域への扉を開くっていうんだ?
 「そうなの、センチビート」
 なんとまあ可愛いどころじゃなく気高い気品を漂わせながら、こんな事聞いてくる秋津島さんと言う人はやはり、並大抵ではない孤高の美少女なのだと言うべきか、それともその端正の面立ちの裏にはあの蓮道周里にも劣らなくおぞましい世界を崇拝する悪魔の仮面を隠し持っているというのだろうか・・・なんてのはちょっとオーバーかな?
 まあ仕方ない、答えるって言ったのは俺なんだから。
 「あの、それはですね・・・」
 「うん」
 なんだその無邪気な瞳の輝きは。
 そんなにワクテカしながら待つ答えじゃないと思うぞ。
 「ムカデなんです」
 「へ?」
 お、おおう、秋津島さんほどのつぶらな瞳でも点になれるとは、昨日の香と言い今日の秋津島さんと言い大発見の連続だ。
 そうムカデって答えようとした時、それなりに定員近い乗客が乗り合わせているバスの中で秋津島さんが、この世のものとも思えない悲鳴をあげた。
 その悲鳴につられたのか、何事かと運転手がバスを停車させる。
 周りの人達が集まって来て、どういうわけか俺を凄い形相で睨みつけている。
 え?何で?何で皆さんそんな恐い顔で・・・・!
 「君!この子に何かしたのかね!?」
 ごつそうな顔のおじさんやおばさん達が今すぐにでもお前を取り押さえてやる的な戦闘態勢丸出しで身構えているからおったまげたぞ。
 「い、いや、僕は何も」
 「じゃあ、今の悲鳴は何なんだ?!」
 「痴漢よ痴漢!きっと痴漢なのよ!」
 「な、ちょっと!」
 うおおおい!秋津島さん、早く皆さんに釈明を・・・!
 秋津島さんは固まっていた。
 おいおい、きみはそんなにムカデが嫌いなのにムカデのことを聞いてきたのかい?
 何が君をそうさせたんだ?
 いや、それどころじゃなく、俺、本当に高校生にして性犯罪者の汚名を背負うことになりかねない状況なんですけど!
 あわわ、バスの運ちゃんまでこっちにやって来る。
 ピンチだ。大ピンチで絶体絶命だ。
 俺が観念・・・いや、やってないことに観念したというわけではないのだけれど・・・しかけた時、ようやく自分を取り戻した秋津島さんが席を立った。
 「すみません、彼、私の連れなんです」
 そう言ってぺこりとお辞儀なんぞしてみせる。
 「だって君、悲鳴をあげて・・・彼が何かしたんじゃないの?」
 「いえ私、寝てたみたいで・・・嫌な夢を見てしまって・・・」
 「それで悲鳴を?」
 と言ったのは、私一人で男5人くらい捻り潰せますみたいに勇ましそうなおばさんだ。
 「・・・戦争の夢を・・・」
 秋津島さんはいかにも心が折れそうな女子高生ですとでも言いたげに少し声を震わせておばさんに答えてみせる。
 こいつは・・・俺みたいなヤツがやったら絶対ふざけるなかけられそうだな・・・秋津島さんみたいな美少女がやってみせるとはまりすぎるほど絵になるから恐ろしい。
 「すみません・・・お騒がせして」
 伏し目がちに今一度頭を下げると周りの人は、それじゃあしようがないとでも言うように・・・俺はたまげた・・・潮が引くようにもといたそれぞれの席に引き揚げ始める。
 「気持は分かるよ、お嬢さん」
 バスの運ちゃんまでが、うんうんと何度も頷きながら声をかけて来た。
 「何があったのはわからんが、元気を出しなさいよ」
 うわー、俺、そんな優しい言葉誰からもかけられたこと無いぞ。
 うむむ、やはり美人は得なのか?
 あ、でも、昨日、香に・・・

「最後を迎えなくちゃいけなくなった時は私が・・・私が隣にいてあげるから」

あれは一体。
 バスが走り出す。
 「ゴメンね竹林君」
 秋津島さんの囁くような声が俺の耳元に囁かれ、昨日の香の言葉について考えることを中断させる。
 「次のバス停で降りよう」
 「それは良いけど秋津島さん、これから何所へ行こう?」
 「ここから停留所二つ分歩くと水族館だよ」
 無表情に声を潜めつつも・・・そりゃあいきなり元気になったら周囲が怪訝な顔すること必至だもんね・・・悪戯っぽい目をしながら秋津島さんは言った。
 「お詫びに君が一番好きなところへ連れて行くことにしよう」
 「俺の?」
 「ふふふふん」
 周囲に気を使いつつも、秋津島さんは俺の耳元で小さく囁くと、降車のブザーを押した。

  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

「なるほど、たしかに俺が喜びそうな場所」
 秋津島さんと連れだって歩くこと小一時間、辿り着いたのは室蘭水族館だい。
 ここはもう、とっても古くて竜吉じいちゃんがガキんちょの頃よりも昔に開館した太古の代物だ。肝心の水族館の規模は小さいけど・・・何代目かは知らないが・・・名物のデンキウナギがいるし、さらにはこぢんまりした遊園地と、オットセイやら何やらに餌を・・・有料ですが・・・あげることができるミニ動物園なんかがあって入館料も超がつくくらいのお手頃価格なんで、それこそ家族連れから実弾が乏しい彼氏と彼女の憩いの場所として市民から愛され続けている。
 そりゃまあ、登別のマリンパーク・ニ○スの方が遥かにお洒落でデートにはもってこいなんだけど・・何せ○クスの水族館はエスカレーターと水中トンネルから眺める巨大水槽が圧巻で飽きが来ない。
 田舎者の俺達からしてみれば別世界にも思える夢の国だが入館料がべらぼうに高いのが玉に傷ってなところだ。たしかにあれだけの施設を維持管理するわけだから値段が張るのはやむを得ずと言うところか。
 それに比べて室蘭水族館は水族館なんだかミニ遊園地なんだかミニミニ動物園なんだかよくわからないごった煮のようなとこなんだけど、それはそれで充分に楽しめる親しみある馴染みの遊び場という地位を地道に築いている。
そして、呆れたことに水族館は人でいっぱいだった。
 まるでやけっぱちだとでもいう感じで市民町民家族連れから彼氏彼女に爺さん婆さんまでが繰り出していて、とてもじゃないが和めない有様だった。
 ま、まあ、俺達もその中の2名なわけだからありこれ言える筋合いじゃないことはわかっちゃいるんだが。
 でだね。
 秋津島さんが、俺の好きなところって言ったのはここだ。
 室蘭市と登別市の狭間にある鷲別町がビオトープの町宣言をしたのにあやかったのか何なのか水族館の空き地に建てられたのがここビオトープ実験館ってやつだ。
 こいつは言わずもがなの軍事産業各界から防衛省内閣府あれやこれやから地元のご機嫌取りに注ぎ込まれた多額の交付金やら支援金やらのおこぼれで、それでいて豪華なガラス張りでピラミッド型の洒落た温室ってな感じで本館の水族館を尻目にそそり立っている。
 エジプトはクフ王のピラミッドと高さと辺の長さを何分の一だかに・・・たはは正確な比率は忘れちまったが・・・縮尺されているんだが、まさか神秘のパワーにあやかって館内に水草をウハウハもうもうに繁殖させようなんて企んでいたのかも知れないというのは俺のささやかな妄想だ。
 「私、今までここに入ったことないんだよね」
 傍らの秋津島さんがぼそりと呟く。
 ここまでの道程で、どういう理由で秋津島さんがムカデに過剰反応を示したのかを知ることとなった俺は彼女に対し、同情以外の想いを抱くことが出来なかった。
 ジャンボタニシとその卵、さらには蓮道先輩から吹き込まれたペルージャイアントオオムカデの悪夢的な描写の記憶が相まってのことだと聞かされては、これはさすがに・・・コイツ痴漢です的な悲鳴をあげられたとしても・・・責める気にはなれない。
 某動画サイトでネズミを補食するペルージャイアントオオムカデを見た時ニャ、さすがの俺も全身さぶいぼで卒倒しそうになったくらいだし、初めてジャンボタニシの赤々した卵ちゃんを目にした時は・・・さらにはゲロゲロな産卵シーンを目撃してしまった時は前世紀の古典SFでホラーな映画の一場面を思い出して目眩を覚えたくらいだったんだから。
 ああ、可哀想な秋津島さん。
 「俺、何回か来たことあるよ」
それにしても、外の賑わいとは裏腹の、ここの閑散ぶりはどういうことなんだ?
 ここって、俺みたいな物好きしか足を踏み入れないあなたの知らない世界なんだろうか?
 「うーん、熱帯植物園みたいなところなのかな?私、そういうとこにも行ったこと無いんだ」
 「熱帯植物園って言えば・・・函館の湯川温泉街の海岸近くにあったの、俺、幼稚園の時に行ったことがあるなあ」
 うーん、これはちょっとしみじみした思い出だな。
 「どんなとこだったの?」
 「うん、まあ、ふつうに色々植物があって・・・あーお猿さんがいっぱいいたなあ」
 「植物園にお猿さん?」
 くすくす笑う秋津島さんが可愛い。
 「ははは、今はさすがにどうなってるかはわからないけど・・・ここはビオトープを謳ってるだけあって、アマゾンエリアにアジアンエリア、それとオセアニアエリア、日本エリアの四区画に分かれていて、それぞれの地域の代表的な水草とか水辺の植物を色々育てているんだよ」
 「ふーん」
 ・・・あ、しまった・・・秋津島さんに、マニアックすぎる話しをしてしまった・・・
 「ま、まあここの中は、水草ばかりだし、秋津島さん退屈しちゃうかも・・・」
 俺は少しばかりあせりつつ、そう取りなしたんだけど、秋津島さんの反応は意外だった。
 「でもって、ここにルドビジアがあるのかな?」
 何故だかわからないが、秋津島さんは真剣だった。
 何故だ?なんでそこまでルドビジアに拘るんだ?
 ・・・でも、ルドビジアって言えば・・・
 「あるって言えばあるんだけど、ここでは日本エリアでミズユキノシタって名前で植えられてるんだ」
 「ミズユキノシタ?・・・何処かで聞いたような・・・あ、そうだ浅沼さんが言ってたけど・・・」
 「ミズユキノシタは本州の方で自生してる水草でね。元を正せばルドビジア・オバリスと同じなんだよ」
 「そうか・・・そうなんだ・・・」
 おいおい何故ルドビジア・オバリスでそれほどに深刻になるんだい?
 その理由を聞いてみたい気もするけど、俺は聞く気にはなれなかった。
 俺にとってルドビジア・オバリスは忌まわしい水草。
 「 オバリス・・・スクリミリンゴガイ・・・センチビート・・・ペルージャイアントオオムカデ?・・・」
 秋津島さんは、何かに取り憑かれたように独り言を呟いた。
 そうそれは緑川先輩に関わる・・・え?
 オバリス・・・スクリミリンゴガイ・・・ペルージャイアントオオムカデ?
・・・今、、秋津島さんは確かにそう言った・・・
 俺の背筋に冷たいものが走った。
 緑川美佐子・・・浅沼香・・・蓮道周里。
 秋津島さん、気づいているのか?
 「秋津島さん・・・」
 「君は言ったぞ。水草は語らないって」
 何かを決意した顔で秋津島さんは言った。
 俺と緑川さんしか知らない、二人だけで交わした言葉の切片を。
 ・・・そうだ、あの時俺は言ったんだ・・・そして緑川先輩は・・・
 「でも彼女は言ったよ。 ・・・水草が、あなたを導く・・・でも、君は・・水草は語らないって言った・・・私がそう言うと彼女はこう言ったんだよ・・・君と私・・・私、つまり秋津島と君という意味だよ・・・水草は、その時に語る・・・その時に導く・・・忘れないでって」
 「何時・・・何所で聞いたの?」
 自分でも情けないほどに声が震えた。
周りのビオトープも水草も、目に入らなくなってしまった。
 俺は、身体の震えを抑えようと身を固くする。
 「・・・君を信じて、話すことにするよ・・・」
 躊躇いがちに、秋津島さんは言った。
 耳を疑うような話しだった。

  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

 まったく、これは賭みたいなものだった。
 なんてったって、私の根拠はかつて竹林がゲノ占の手伝いしたのを誰にも言わないでくれたイコールコイツは口が硬い、信用できる・・・かもしれない・・・っていう、お前そんなで大丈夫なのか?ってなほどにヘロヘロな代物なんだから。
 下手をしたらこの女、顔と体は良いけど頭の中は残念どころじゃなく因果地平の彼方までぶっ飛んじゃってる自爆女って扱いをされかねない。
 だけど、ここまで来たらもう全部ぶちまけて後は野となれ山となれ的覚悟が必要だぞ。
私と竹林は、四区画に別れたビオトープ実験館の中央広場の休憩所に並ぶベンチに腰掛けていた。
 開館当初は人で賑わってたかも知れない実験館は何とも現在、閑古鳥が鳴きっぱなしのようで、私と竹林の二人っきりなんだなこれが。
 まあ、それはそれで好都合ってもんだ。
 一歩間違えば・・・とうの昔に大間違いしてる気分満々なんだけど・・・頭のネジが何本か外れちゃったんじゃないかってどん引きされても仕方のないくらい妄想じみた、竹林が川で撃沈してからの顛末を、人気のないことを幸いに私は、誰はばかることなく話すことが出来たんだから。
 竹林は、有り難いことに、真剣な顔で私の話に耳を傾けてくれた。
 「俺ね、秋津島さん。病院で目が醒めた時、じいちゃんと母さんに、何だってあんな所うろついてたんだって聞かれたんだけど、嘘ついたんだ。流木探してて足滑らせたってさ」
 「やっぱり別の目的があったんだね?」
 私は勤めて真面目に、今度は自分が聞き役なんだってことを心に留め、そう尋ねた。
 小さく頷き、竹林は言った。
 「以前から水研で、半分冗談で企んでた事があったんだ」
 「陰謀?」
 「い、いや、そんな大それた事じゃないんだけど」
 やばい、話の腰を折ってしまったぞあわわわわ。
 「ごめん、ごめん、続けて頂戴」
 「うん、つまりだね、川向こうの林の奥へは余程の物好きでもないと足を踏み入れないから、木漏れ日のあるところを探して、そこへ使い古した水槽を並べて気中で水草を大量に栽培できないかって計画だったんだけど・・・」
 おいおい、それの何所が陰謀なんだって突っ込んでやりたくなったけど、今は我慢だ。
 「俺と緑川さんと浅沼さんとで、一度林の奥を探索したことがあったんだ。そして、見つけた」
 遠い目で語る竹林は何所からどう見ても古墳時代を懐かしむ埴輪のようで、あんまり様にはならないんだけど、これも口に出してはいけないから、ただただ静かに頷いて相槌を打つ私。
 うーん、私の方が悪の組織・・・この場合は水研じゃわはは・・・からの逃亡者の懺悔に耳を傾ける薄幸のヒロインという役どころだなあ。
 「何を・・何を見つけたの?」
 そして、謎に迫ったヒロインは、たいてい悲惨な末路を辿るのよねこれが。
 「林の奥に、結構大きな水溜まりがあったんだ・・・そうだなあ学校の体育館の半分くらいの広さだったかな」
 「そんな水溜まりがあったんだ」
 「うん、それも、その周りだけ木が生えていないから陽も差していて・・・つまり・・・その・・・」
 本当に話して良いものかどうか悩んでいるようで、竹林は言葉を濁した。
 でもね、竹林、そこまで言ったら君が白状しようがしまいが私にだって水研が何を企んだか容易に推察できるってもんだぞ。
 「つまり、水研はその水溜まりで直に水草栽培することを思いついたってわけ?」
 私がそう突っ込むと、竹林はどうして気づいたんだって顔で細い一重を大きく見開いた。
 「ど、どうして」
 「水草って、けっこう高いじゃないの。一番安いはずのキンギョ・・・ああ、カボンバだって昔私が買った時は400円くらい・・・2030年代価格です・・・したもの。ほら~ホームセンターなんかで熱帯魚のお店なんて出してるでしょう。その時見たんで覚えてるけど、何だか良くわからない水草が1000円とか2000円とかで売ってるんでビックリしたことがあったのよ・・・だから、そういった高価な水草を外でこっそり栽培できたら笑いが止まらないでしょう?」
 「まったくその通りで」
 観念しましたとばかりに竹林はぐったりした。
 「それで、やったの?」
 「まさか!」
 私の意に反して竹林達は実直なオタク集団だったらしい。
 「いくら何でも、そんな後ろに手が回るような真似できないよ」
 「へ?」
 「個人の敷地でならともかく、公の場所でそんなことするのは御法度だよ」
 おいおい御法度って、君は何時の時代の人間だ?
 「それなら別に問題は・・・」
 「それが最初はみんな、ただの妄想だけにしておこうってことで終わったんだけど、戦争になって電気の事情で水研が廃止になるって決まった頃から緑川先輩が・・・」
 「緑川さんのことは聞いてるよ・・・気の毒だなって思った」
 華連邦からの弾道ミサイルを迎撃していた僚艦を守るために、緑川さんのお父さんが乗っていた護衛艦は、その盾となって撃沈されたのだ。
 「あの時の緑川先輩は気丈だった」
 竹林は小さくため息を吐いた。
 少しばかり、話すことに疲れ始めているように私には見えた。
 「竹林君、辛かったら無理に話さなくても良いんだよ」
 おいおい、お前、いつからそんな心優しい女の子になったんだ?お前は竹林周辺を取り巻く謎を知りたくてうずうずしていたんじゃまいか?散々面倒事に巻き込んでくれた竹林の襟首捕まえて、小一時間説教しながら洗いざらい白状させる気満々だったんじゃないのか?
 だけど。
 だけど、これ以上話しをさせるのは、何となく可哀想な気がする。
竹林だって、私に劣らずいろいろ大変な目に、辛い目に会ってたはずなんだから。
 「いや、良いんだよ」
 泣かせることにいじらしげな顔で竹林は無理矢理な笑顔で応えた。
 「秋津島さんには、ちゃんと話しておかないと」
 うおお~い、そんな顔で見つめられたら、私だって頷いちゃうしかないじゃないか。
 「水研が廃止になるって決まった頃から緑川先輩は塞ぎがちになって・・・それで、水草も一部を除いて処分しなきゃならなくなったんだ。もっとも、生徒玄関と職員玄関の大型の水槽を空にするのがメインで、部室の水槽は間を置いて少しずつ空にしていけば良いって話しだったから俺は楽観してたんだけど、でかい水槽の水草は膨大だから、いくらかはプランターで気中栽培って計画を立てたんだけど、緑川さんは・・・その・・言い始めたんだ・・・水草が怖がってるって」
 「怖がる?」
 「干からびるのはイヤだって言ってるって、緑川さんが独り言のように呟いてるの見て、俺ちょっとどころじゃなく心配になっていたんだけど・・・丁度2日がかりで二つの水槽を空にして、水草は湿らせた新聞紙にくるんで小分けして・・・それで水気が保てれば1日2日は平気なんだよ水草は・・・緑川さんは全部捨てたって言ってたけど、俺には嘘だってわかってた」
 「つまり、全部君達が見つけた水溜まりに?」
 私の問いに、竹林は無言で頷いた。
 「あそこは適当に広くて深さもせいぜい4、50センチ程度で・・・そして何より・・」
 な、何だよ勿体つけるな竹林庄一め。
 「坊主山って、昔は木なんか全然無かったのにビオトープ宣言以来植林を重ねて成長促進剤をこれでもかってくらいに投入して今に至るわけなんだけど・・・そのですね」
 「うんうん」
 「あそこの俺が転んで溺れた川なんだけど」
 「うん」
 「水研は時々、あそこから水汲んできて水槽に添加してたんだ・・・つまり、坊主山の土壌にはまだ成長促進剤がたくさん含まれていて、それが雨とかで川に染み出てるってわけ」
 「ああ、それを肥料代わりにしてたわけね。水草の」
 「そうなんだ、だからあの水溜まりも栄養でいっぱい。もちろん水質も調べてみたけど、これが水草の環境に適した弱酸性でpHは6ちょっとなんだから俺達もびっくりさ。きっと周りの木からの落ち葉が水底に溜まっているからで、土壌はさくさくで粘土質じゃないからもう・・・」
 「ぜひ水草植えてくださいって環境だった?」
 私がそう言うと竹林はやりきれないとでも言うようにため息を吐いた。
 「緑川さんは誘惑に負けたんだよ・・・エキノドルスにクリプトコリネ、ウィローモスにトニナからスターレンジ・・・それどころじゃなく全部あそこに植えたに違いない」
 「違いないって・・・竹林君は見てないの?」
 「うん、緑川さん、俺達に黙って姿を消したんだ・・・お別れくらい言ってくれても良かったのに突然姿を消して・・・俺には携帯にメールがあったけど、そこに水草は全部あの水溜まりに植えたって・・・」
 「ま、まあ、でも、水草って外来種だし、放っておいても冬は越せないわけでしょう?」
 「・・・・それが・・・」
 もうにっちもさっちも行きませんって顔で竹林は言った。
 まだまだ室温が保たれていて、ちょっと暑いくらいの実験館のど真ん中。
 私の隣にいるむさ苦しい埴輪顔の竹林が青ざめている。
 あー、私も一緒に血の気の引いた顔で目を点にとしていた。
 「そんなことが出来るの?」
 「ほんの数株だけど、緑川さんはエキノとクリプトの品種改良をしてたんだ。あの人は何度も失敗したけど、とうとうやり遂げたよ」
 「越冬できる品種だなんて・・・」
 「それに、外来種っていっても、もとから越冬できる品種もあるんだよ。例えばバリスネリアの類とか・・・ルドビジアとか」
 私は声を失った。
 「あそこは間違いなく何種類かの水草が育って冬も越す。成長促進剤で爆発的に増殖して、あの川まであふれ出すかも知れない」
 「まさか・・・だって、水溜まりは林の奥にあるんでしょう?」
 「長雨で、水かさが増えて支流が出来ていた・・・川岸には、もうルドビジアの気中葉が生え始めていたよ」
 「な・・・だから君は・・・」
 「あれから4週間・・・まだ俺の手で刈り取れる状態かも知れないから」
 「だから、君は確かめに行ったんだ」
 「でも、転んだ」
 「まあまあ、そんなにがっかりしないで」
 そんなふうに慰めてやるしかない私なんだが・・・ん?
 待てよ。
 じゃあ、なんだって佐川先生と三沢保健医は川向こうに拘ってるんだ?
 たかだか水草狂の女子高生が違法に植えた水草があるだけなんだぞ。
 いや、たしかに戦死された艦長さんの忘れ形見であるお嬢さんの安否が気がかりだってのはわかるけど・・・でも連中は消息不明の緑川さんだけが懸案ってわけじゃない。
 ワンとシアのガラス棒って代物があの二人を必死にさせてるんだぞ。
 私は竹林にその話を振ってみたんだけど、そんなの知らないの一言で一蹴されてしまった。
 「聞いたことないなあ」
 「何て言うか、君は思わぬ所で大変なことに巻き込まれてるんじゃないかな」
 「いや、でも秋津島さん」
 「そりゃあね、一介の女子高生の妄想だって笑われても仕方ないんだけどね」
 私ゃため息ついちゃったね。
 こんなんじゃ、いつまでたっても緑川幽霊から解放してもらえないぞ。
 「あ、いや、そういうつもりじゃ」
 竹林は私の機嫌を損ねたと思ったらしく、見てて面白いほどにあたふたしてる。
 「でもね竹林君。その水溜まりには何かがあるんだよ」
 「それは・・・たしかに・・・」
 口籠もりながら躊躇いを見せる竹林の心中は、鈍感な私でも手に取るようにわかっている。竹林は恐れてるんだ。私が取り憑かれている緑川さんの亡骸が、もしかしたらくだんの水溜まりに沈んでいるんじゃないかってことを。
 そして、その水の底から何かを訴えようとしているんじゃないかってことを。
 私と竹林はすでに、そうした結論に達しているのだ。
 ただ、あまりにも恐ろしくて、それを口に出すことが出来ない。
 緑川さんは、死んでいる。
 だとしたら、彼女はどういう形で命を落とすことになったんだ?
 自らの手で命を絶ったのか。
 あるいは。
 何者かの手によって・・・
 私と竹林はそれを恐れている。
 何故なら、もしも後者なら、その魔手は私達にも及ぶのだろうから。
 「ねえ竹林君。怒らないで聞いて欲しいんだけど」
 「うん」
 「緑川さんは、実は生きていて、みんなが聞いているように内地の実家にいるんだって可能性もないわけじゃないんだよね」
 「うん」
 竹林は何が言いたいんだ?って顔で私を凝視した。
 「生き霊なんじゃないかな」
 「はあ?」
 「だって、そう考えた方が・・・」
 「それは現実逃避だよ」
 私を遮り、竹林はキッパリと言った。
 私は、何度目かのため息を吐いた。
 「そうだよね。ゴメン」
 「俺は行ってみるよ」
 「行くなら私も行くよ」
 「でも、秋津島さんには・・・」
 今度は私が竹林を遮る番だった。
 「私はもう、充分に巻き込まれてるんだよ」
 サナトリウムの木陰で詩集を嗜む姿が似合う・・・自分でそう例えるのは果てしなく気恥ずかしいが、これは事実だ・・・美少女と、何処かの古墳から這い出て来た・・・この例えは万人の賛辞を獲得できる自信があるぞ・・・生ける埴輪は、大阪城を・・・あれ?名古屋城だったっけ?・・・挟んで睨み合うゴ○ラとアン○ラスのように身構えてしまう。
 結果、気迫負けした竹林は項垂れた。
 「それはたしかに、申し訳ないって思っているよ」
 そんな意気消沈の埴輪を可哀想とは思ったけれど、ここは追及の手を緩めてはいけない。
 「それは良いとして竹林君。私も君も、結構な窮地に立たされていると思うんだ」
 「確かに」
 「もう、元気出しなさいよ」
 そうそういつまでも干からびていて良いわけじゃないんだぞって、こいつの襟首掴んでガクガク揺さぶってやりたい衝動に駆られる私だけど、あいにく今日の竹林はTシャツなんで、ひっ掴む襟首がないんだなこれが。
 「君なら私以上に状況を把握していると思ってたぞ」
 「え?」
 「良いかい。君も私も、彼等がそうしなきゃと思えばいつでも首を欠くことができるくらいに弱ッちい存在なんだ・・・でしょう?」
 竹林は、何だこの逆境に豹変する逆ギレ女はって目で見てるけど、ここはこれで押し通そう。
 「つまりだよ、私も君も泳がされているんだよ」
 「泳ぐ?」
 「だからっ!」
 私は苛々したけど、ここはひとつ気を静めようと深く深呼吸して竹林に顔を近づけた。
 まったく、浅沼香とお友達だというくせに、私程度の美少女が接近しただけでびくってするとは一体どんな小心者なんだ君は。
 「敵も手詰まりなんだよ。ワンとシアとガラス棒を見つけたくても思うように事が運んでいない・・・だから、手がかりになりそうな君と私を・・・」
 「あ、ああ、その泳がせる」
 なるほどと合点がいったらしく、竹林は手で膝を叩いた。
 まったく、涙が出るほど年寄り臭い仕草だよ。
 そんなん、竜吉さんだってやらないぜ。
 「だから、インチキ教師とニセ保健医については、その何かに辿り着くまでは私達の身の安全が保証されているって考えて良いんじゃないかな?」
 「なるほど・・・うん、秋津島さんの言うとおりだと思う・・・でも」
 竹林がまたまた不安げな顔を見せた。
 「ワンとシアの側からすれば、秋津島さんと俺は、速攻いなくなって欲しいお邪魔虫」
 「だけど、そう易々と手は出せない」
 ここはひとつ、明るい側面もあるのだということを示して弱気な埴輪を激励しなければいけない。
 「何かに辿り着くための鍵が私と君だっていうなら、インチキ教師とニセ保健医は、私達を守らなきゃいけない立場だって、そう思えない?」
  私は自分自身にもそう言い聞かせた。奴らは私達を守らなくちゃいけない。私達がやられちゃったらせっかくたぐり寄せたか細い糸が断ち切られることになるんだから。
「うん・・・うん、たしかに・・・」
 竹林は腰をあげて、私を見下ろした。
 「なんにしても、俺はきっちり後始末を着けたい・・・俺、あそこへ行く・・・」
と、ちょっとばかり固い決意を示した途端、竹林は立ち眩みしてよろめいた。
 「おっ、おいっ君!」
 私ゃ慌てて起ち上がり、竹林を両手で支えた。
 「あ・・・ああごめん・・・」
 考えてみれば、竹林は病み上がりなのだ。
 数日意識不明で、病院のベッドに横たわっていたわけで、それが大したリハビリも無しに退院なんて事になった挙げ句の翌日なんだから。そんな竹林を停留所二つ分歩かせた私は、今考えてみると相当に鬼畜な女だ。
 「気にしないで・・・いきなり出かけようなんて無理言ったのは私なんだから」
 少しどころではない罪悪感を覚えながら私は、竹林の腰に手を回してベンチに座らせる。
 何となく老人介護って気分で、現在私が男子に対して非常識なほどに密着してことなんてさすがに意識もしなかった。
 「い、いや、誘ってもらえたのは本心から嬉しかったんだ」
 何だ?
 何を戯言言ってんだこの生けるというか瀕死の埴輪めって思ったけど、取り敢えずは許してやるぞ今日のところはな。
 「それに、秋津島さんの周りで起きたことを全部話してくれたことも」
 「いや~何だこの妄想女って思われたらどうしようかってハラハラしてたんだけど、君がちゃんと耳を傾けてくれて、こちらこそありがとうって気持だよ」
 私は胸に貯めていたことをすべて吐き出すことが出来て、けっこう気持ち良くなっていたのだ。
 「その・・・秋津島さんを悩ませてる幽霊のことも解決しないとね」
 おっと真面目顔で意思表示してはいる竹林だけど、埴輪顔だと今一押しが足りないのが残念なんだが、君のその気持が今の私にはとんでもないほど有り難い。
 「やっぱり、俺が川を渡らなかったら・・・あそこで溺れたりしなかったら秋津島さんは巻き込まれないですんだのかもしれないし」
 竹林は、そこのところで何とも言えない罪悪感を懐いている。
 「うーん」
 私は唸り・・・悪までもお上品にだ・・・考えていたことを口にした。
 「そこのところは関係ない気がするんだ私。いやね、もしかしたら、竹林に関係なく私は巻き込まれていたんじゃないかって気に、今はなっているのよ」
 「そ、そうなの?」
 「だって、私の席窓際だしね~」
 私くらいの美少女だと嫌でも目立つし、幽霊さんのお目に留まるなんて当然の帰結よって気持でいるどうしようもない私だけれど、さすがにそれを口にしたら竹林に呆れ果てられ逐電されるのは目に見えているからこればかりは胸の奥にしまっておこう。
 なんてのはただの強がりで、私の捻くれた精神的錯乱てことにしておいてだ。
 「まあ、たまたまって事だったんじゃないかな」
 私は無難で差し障りのない答えを口にしていた。
 「たまたま私は川を渡る君を見つけたって事だと思うよ」
 「でも、俺、そこで足を滑らせちゃった」
 「成り行きだよ成り行き・・・そういうことにしておこうよ・・・私、君に話すまでは色々と悩んだり怖がったりしていたけど、今はもう、何となく二人で立ち向かえば何とかなるんじゃないかって気分になってるんだから」
 「でもさ、秋津島さんだって、いろいろやろうとしていたことがあったんじゃないのかな・・・だって最後の夏になるかもしれないんだから」
 「おいおい、そんな神妙な顔するな竹林・・・あ」
 しまったって思ったね。
 「ごめん、地が出ちゃった」
 お、おお~竹林が微妙にどん引きしているのがよくわかるぞ。
 「君をがっかりさせたら申し訳ないけど、実際の私ってこんな感じなのよいつも・・・だからあきづき型なんとかなんてあだ名はとんでもなく見当違いも甚だしいというわけなのよお」
 もう猫被ってても仕方ないわけなので、私は開き直り、わははははと自爆気味に笑って見せた。
 「なんだあ」
 竹林もつられて笑っていた。
 「なんだか、こっちの方の秋津島さんの方が良いなあ」
 「あれ?がっかりってことにならないの?」
 「うん、その逆です」
 「それなら君の前ではホントの私をさらけ出すことにしてしまおうかな」
 私は、ふうってため息を吐いてガラス張りの天井を見上げた。
 安堵のため息だった。
 「私なんて、いざこれが最後の夏か持って時になって、どうしたらいいのかとか何をしたらいいのかなんて大慌てで少しばかりじゃなく我を忘れていたんだよ」
 「秋津島さんが?」
 竹林が細い眼をきょとんとさせる。
 おーい、その一重瞼の奥が全然見えないぞお。
 「そうだよ」
 説得力を持たせようと・・・私の話の何所にそんなもんがあるのかはおいといてだ・・・意味深に大きく頷いて見せた。
 「私の友達はみんな最後の夏に恋の花を咲かせようって大わらわで私のことは放置プレイだしね。私は私で取り敢えず何処かの部活に首突っ込んで、みんなに負けずに良い彼氏見つけてやろうかって目を血走らせてたし」
 全く本当のことを話してしまったせいで大いに気恥ずかしくなった私は、誤魔化しにがははと笑って見せてやったぞ、どうだどん引きしろ竹林庄一。
 しかし、奴の反応は予想外だった。
 「その気持は分かるような気がするなあ」
 しみじみと頷いてやがるぞ生ける埴輪が。
 「いやいや、無理に合わせてくれなくても・・・」
 「緑川さんのことがなかったら、自分もそんな感じで奔走してたかも知れないなあって思ってさ」
 「え、そうなの?」
 今度は私がきょとんってする番だったぞ。
 「そうだよ」
 竹林はため息を吐いた。
 そして、竹林はそれ以上のことを言わなかった。
 私も、それ以上のことを聞くことはしないで沈黙を守った。
 緑と水がいっぱいの、静まり返ったビオトープ実験館の中で、私と竹林はぼんやりとベンチに腰掛けている。
 何も話さずに、何もすることなく、ただぼんやりと少し生温かい空気の中で私と竹林は同じ時間を過ごしている。
 それが、自分でも意外なほどに居心地が良くて、今までにない安心感に包み込まれているのを感じる。
 不思議な気分だった。
 正直なところ、私は竹林を異性として意識することは出来ないんでいるんだけど、それがどうしたっていう、妙に納得した気持になれている。
 そうなのだ、気位が高く自意識過剰の性格的に残念な欠陥美少女の私が、隣に座ってる生ける埴輪の存在を許容し、すでにというかとっくの昔から受け入れてしまっていると言うことではあるまいか?
 うーん、まあ、それはそれで、それでも良いのか。
 うん、そうだそれで良いのだきっと。
 「あ、そろそろ帰る?」
 沈黙を退屈と受け取ったのか、竹林がぎこちなく聞いてきた。
 そんな小心ぶりがなんとも憎めなく思った私は、自分でも信じられないくらいに自然な仕草でくすくすと笑いを噛み締めている。
 「違う違う、退屈したんじゃないんだ」
 「そうなの?」
 「君の隣だと、どういうわけかマイペースになってしまってる自分がいることに驚きを感じているのだ」
 「そりゃあ、俺はご覧の通り・・・」
 「何処かの古墳から這い出てきた生ける埴輪」
 「全くその通りで」
 言われてしまったって顔で竹林がわざとらしく鼻白んでみせる。
 「まあまあ、何処かで一休みしようよ」
 こんな感じじゃ、もう怪しげなお話しなんて続ける気にはなれないなって諦め気分満々になってしまったけど、私は欲しかった情報以上のものを、今この瞬間に手に入れたのだから。
 私はすでに満足すべき状況に身を置いているんじゃないか?
 たとえ、私を取り巻く謎だらけで危険で奇怪な難題は解決していなくてもね。
 それに。
 緑川さんの行方はわからずとしても、ゲノ占の謎は解けたのだ。
 緑川美佐子と浅沼香、そして蓮道周里との間には何かがあった。
 ただ、それが佐川、三沢両氏の陰謀めいたお話しとどう関わってくるのかはどうにもこうにもわからない。
 連中の言う第三次世界大戦の引き金になったガラス棒と、それを作ったっていうワンとシアのお話しに至っては雲を掴むようなもので、一介の女子高生にどうこうできるレベルではないじゃないか。
 う~ん、私は一体どうすれば良いんだ?
 緑川幽霊は、どのあたりまで私にノルマを課しているんだろう。
 自分を死に至らしめた誰かを見つけ出して欲しいのはともかくとしても、それ以上のご希望にはさすがにお応えいたしかねない。
 私は心の中で、ただただ唸るしかなかった。
 「もう大丈夫だよ秋津島さん」
 ややあって、それでも少し青ざめた顔で竹林は言った。
 「もう、川でのことと言い今日のことと言い迷惑ばかりかけてしまって」
おいおい、病院で、走るゾンビに豹変したねんねちゃんとの一見も忘れないで欲しいぞとは言うもののだ。
 「まあ、そう言うな竹林」
 私はそう取りなした。
 「数日養生して、体力が戻ったら例の水溜まりへ行ってみようよ。それで緑川さんが植えたって言う水草を回収してしまえば君の気持ちも収まるんでしょう?」
 「それはそうだけど・・・そうなんだけど・・・行くのは俺一人の方が・・・」
 竹林は、どうやら気持が顔に手でしまう奴らしく・・・表情の乏しい埴輪顔のくせに・・・見るからに私の同行を望んでいないのが明らかだった。
 さてはコイツ、その水溜まりには私を含め、人目に触れては差し障りのある何かがあるって事を予期しているんじゃないだろうね。
 例えば・・・と想いを巡らせ、私は当然の帰結のごとくその差し障りのある何かについて思い当たる。
 そう、竹林はもしかして、そこに緑川さんの変わり果てた姿が沈んでいた時のことを恐れているんじゃないのか?
 もしかしたらコイツ・・・
 「竹林・・・もしかして君は・・・あそこに・・・」
 恐る恐る私が聞くと、竹林は掠れるような声で応えた。
 恐い顔をしていた。
 「そこまでにしておいてくれ・・・」
 「ゴメン」
 そう答えるしか、今は術がない。
 竹林はもしかしたら、そこに緑川さんがいたとして、一人で何をどうしようって言うんだろう。
 竹林はもしかしたら、緑川さんがいなくなった本当の理由を知っているんじゃないのか?
 竹林はもしかしたら、緑川さんを亡き者にした誰かに心当たりがあるんじゃないのか?
 だから竹林の本当の目的は水草の処理なんかじゃなくて・・・それは・・・
 もう、ここまで来れば、緑川さんはその水溜まりに屍を曝していて、犯人は浅沼香か蓮道周里のどちらかだって結論にしか達しないじゃないか。
 もちろん、証拠なんて何もないのだけど・・・そう、証拠なんて無い私達の妄想に過ぎない与太話に違いないのだけれど。
 どうか、そうであって欲しいのだけれど。
 「こっちこそゴメン」
 竹林はまだ具合が悪いのか、顔に脂汗を浮かべている。
 「いや、こっちこそ」
 私は、竹林の表情が和らいだのを見てホッとしてしまった。
 な、何だ?
 事の成り行きが私ではなく竹林主導になり始めているような気がするんだが。
 信じられないこの展開は一体何だ?
 「どっちかっていうと初対面に近い間柄なのに、いきなりあけすけな話しを切り出した私が悪いんだよ」
 それは事実だ。
 やっきのやり取りで少し安心して無神経になりすぎていたかも知れない。
 「ただ、竹林が・・・・あ、ゴメンまた呼び捨てにした」
 「ははは、そうしてくれる方が良いよ」
 「私も呼び捨てにしてくれて良いんだけど」
 「うん、もう少し慣れてきたらね」
 竹林が顔を赤らめる。
 「うん」
 私は頷き。
 「それでね、竹林が病院にいる間、竜吉さんとか君のお母さんとか安住ちゃんとかと仲良くなって、君抜きで何だか色々しているうちに、ずっと前からの知り合いのような気持になっちゃって・・・ははは、ちょっと馴れ馴れしくなってしまって」
 ちょっとばかり顔が熱くなっているのはどういうわけだ?
 照れているのか?
 緊張したり照れたりドギマギするのは竹林であって私じゃないはずなのに、何で私が赤面しなきゃならんというのだ。
 うむむ、思わぬ所で私の精神的な脆さが露呈しているではないか。
 まあ、さっき路上で大泣きしたお前が言うなと言う罵詈雑言が聞こえてきそうだということはこの際無視しておこう。
 「いやあ、それは嬉しいことだなあ」
 私の心的葛藤を察する繊細さも望みようのない太古の埴輪が細い一重を三日月に丸めて満面いっぱいの笑顔を浮かべているのが腹立たしいが、ここは我慢だぞ秋津島穂高。
 竹林は、好意的に考えてやれば素直で正直で人畜無害な良い子なのだ。
 自分の利益を差し置いて、人様のことばかり世話焼くものだからいつも損してばかりだけど、それは恐らく結果的に、いやきっと必然的に、何処かの誰かを幸せにしてやっているのかも知れない、そうなのだと思えばそうそう馬鹿には出来ない。
 私は認識していた。
 こいつは結局良いヤツなのだ。
 歩く、情けは人のためならずを標榜する存在なのだ。
 ああ全く。
 良いヤツって言うのは、決してハッピーエンドに辿り着けない・・・例えば映画なんかじゃ最後に男二人と女一人が生き残ってラスト10分でヒーローとヒロインを引き立てるために不条理な死を強要される残念な役どころピッタリの三枚目ってな位置から逸脱できない残念な奴なんだが・・・・それでもああコイツはって、何処かの誰かの心の片隅に深い印象を焼きつける名脇役なのじゃないのか?
 そうなのだ、そういうわけで・・・そう、とにかく私はそう感じたのよ・・・竹林は私の心の中に不動の地位を獲得したのだ。
 ああ、例えば男女が生き残ってラスト五分でヒロインのために死んじゃったりする残念な役どころの男もいるんだが、私と竹林の場合はそっちの方か。
 でもな竹林・・・って私は思った。
 例えそうでも私はお前だけを死なせはしないぞ。
 君は私と一緒に闘い、そして生き残るのだ。
 君と・・・
 そう、君と・・・
 まったく乙女心っていうのはコロコロとあっちへ行ったりこっちへ行ったり。
 苛々してむかつく埴輪が、ある一点から憎みきれない相棒へと変身する。
 まるで気まぐれに支点が変わってゆらゆら揺れてるやじろべえみたいなもんだ。
 私は今、竹林っていう存在を、さっき以上身近に感じ始めていた。
 まあ、別に告白し合ったわけでもないあやふやな意気投合ではあるのだけれど、それでも・・・って私は思い始めている。
 そんな表面的なやり取りは無用だし無意味だ。
 私は決心したのだ。
 最後の夏は、埴輪と過ごす。
 それは全く、私の望んでいたシナリオから果てしなく逸脱した顛末であることは否定できないのだけれど、それがどうしたって気持になり始めているのだからこれも運命というものだね。
 「私も嬉しいよ、何となく・・・」
 私はやっぱり赤面しながら、それでも今までの私からは考えられないほど素直な気持ちでいることが出来ている。
 これはこれで嬉しいことだ。
 だから、私は竹林にこう告げたのだ。
 「何となくだけど、最後かも知れない夏を君とこうしていられることが嬉しく感じられる」
 少しばかりぶっきらぼうになってしまったけれど、竹林は人懐こそうな顔で、うんと頷いてくれた。
 これもやっぱり、私にとっては嬉しいことだったわけよ。




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2015/01/26/Mon 19:42:46  「長雨の後に君と」/CM:0/TB:0/

§ 長雨の後に君と   六十一

 「ちゃんと飲むんだよ残さないで」
 「いや、意外と美味しいんだよ」
 俺が強がりを言うと、浅沼さんは破顔した。
 「今まで水研で買い出しして、これ頼んだこと一度もないじゃない」
 「あんまり売ってないからなあ」
 「私にとっては昔懐かしい昭和の味だね」
 そう言って浅沼さんは俺の隣に腰を下ろした。
 「へ、平成生まれのくせに」
 「そう言う君は縄文時代の顔をしてるぞ」
 「な」
 「それとも弥生かな?」
 「なな」
 「まあ、そう言う顔立ちは嫌いじゃないぞ庄一」
 「そ、それは、ちょっと嬉しい」
 「ふふふ、素直な感情の表現も私には好印象だぞ」
 浅沼さんは頷き、ウーロン茶のペットボトルのキャップを捻った。
 ごくりと喉をひと鳴らししてふうっとため息を吐く。
 「それじゃあ、いただきます」
 俺もマウンテン・デューの・・・しまったな、もっと別のやつにすれば良かった・・・口を開けた。
 「庄一、これはチャンスかも知れないぞ」
 と、浅沼さんが俺の方を向いて、意味ありげな笑みを浮かべる。
 「何の?」
 「クラス一のツンデレ美少女と仲良くなるチャンス」
 「ちょっとちょっと浅沼さん」
 俺は飲みかけのマウンテン・デューにむせながら抗弁する。
 「秋津島さんは、俺を助けた立場上、成り行きでやむを得ずお見舞いに来ただけで、俺なんかに仕方ない以上の気持なんて持つわけないでしょう」
 いったい、傍らの「水草の令嬢」は何をとち狂ってるんだ?それともただ、俺をからかってるだけだって言うのか?
 まあ、100パーで後者の方だな。
 「良いじゃないのチャンスにしちゃえば」
 「あのですねえ・・・」
 そう言う俺を制して浅沼さんは言う。
 「君だって、この最後の夏を思い残しなく終わりにしたいでしょう?」
 「まだ終わったわけじゃないよ」
 「でも、大陸から放射能が流れて来るし、もうお日様を見ることも出来なくなる。国のエネルギー政策が軌道に乗って・・・乗れるかどうかはちょっと怪しいけれど・・・みんなが、もう一息ついても良いかな?って思えるようになるまでには私達の水草はとっくに全滅。それまでの間に飢えと寒さで私達も多くが死んじゃうんだよ」
 浅沼さんって、こんなに悲観論者的考え方の人だったかな?
 「今しかないんだよ庄一」
 そう言って、浅沼さんは俺の膝にそっと手を乗せた。
 俺は思わずびくっとしてしまい、そんな間抜けな反応を示した俺にだめ出しに近い笑顔を浮かべた。
 「こらこら、どこまで女子に過剰な反応を示しているんだ?」
 からからと可愛らしい声で浅沼さんは笑う。
 「こ、こりゃどうもで・・・そういう浅沼さんだって、最後かも知れない夏、俺なんぞにかかずらってる場合ではないんじゃないの?」
 「だって私はもてるもん」
 おおう、さすが威風堂々、まるで水戸の黄門様の紋所的絶大的な説得力だ。
 「へへーい」
 「何ふざけてるのよ庄一」
 「だってねえ浅沼さん」
 「いい加減、香って呼べばいいのに」
 本当に、いい加減にしろと言う顔で浅沼さんがため息を吐く。
 「同じ水草好きの同志だって言うのに、クラスの男子に遠慮して他人行儀じゃ私もいい加減イラって来るぞ」
 「あ、あああ、ホント、すまんこってす」
 「それなら二人きりの時くらいは下の名前で呼んで頂戴」
 「わ、わかったよ・・・」
 「香」
 「かかかか」
 「おい」
 「香さん」
 「さんはつけるな小心者め」
 「香」
 「そこまで気合い込めなきゃ言えない名前ですか」
 さらにからからとあさ・・・仕方がない・・・香は笑った。
 「だってあ・・・香、『水草の令嬢』なんですよ」
 「それがどうした?」
 浅沼さんはうんざりした顔でため息を吐いた。
 「その称号をいただいたおかげで、私には誰一人つき合いかけてくれないんだよ。わかるかね?私のこの、やり場のない怒りの激しさが」
 「お、怒ってるの?嫌がってたの?」
 「当たり前だよ」
 ふん、と鼻を鳴らして、やけ酒でも喰らうように喉を鳴らしてあさぬ・・・香はペットボトルのウーロン茶を、恐ろしい勢いで一気飲みした。
 ・・・お・・・恐ろしい・・・恐ろしい・・・俺の中の『水草の令嬢』浅沼香のイメージが、音を立てて崩壊していく・・・
 「会う男子会う男子がおどおどキョドって使い慣れない敬語を撒き散らしながら糸の切れた人形のようにカクカクギクシャクなんて、いい加減蹴り倒したろかって気持になりますよ」
 「は、はあ・・・」
 ああ、俺も会う女子会う女子がそんなだったら・・・うーん、嬉しいのは最初だけで、そのうちに苛々してくるのかな?
 「何だか、同意いたしかねますって態度ねえ」
 「だってさ、俺なんかにゃ到底有り得ない世界だし」
 「まあ、たしかに君は女子が悲鳴とお熱をあげて追いかけ回すようなスペックを持ち合わせているわけでもないからなあ」
 「こりゃまた随分ダイレクトな突っ込みありがとう」
 今度は俺がマウンテン・デューを飲み倒したくなった。
 「怒るな怒るな」
 香が笑いを堪えながら、俺の肩をぱんって叩いた。
 「君には君なりの良いところはたくさんあるんだ」
 と、急に真顔で香が顔を近づけてきたので俺は金縛りにあったように固まってしまったね。
 「ほ、ほほう、周りから生ける埴輪と称される、この私目ににもまだ救いがあるとおっしゃる?」
 「そうそう、今のさり気なく毒をもって切り返すことが出来る機転の良さもその一つだね」
 「うーん、それはそれで、逆に評判を落とす一因にもなるような気がするんだけど」
 「少なくとも、私にとっては違うな」
 「はあ・・・」
 「あのね、だいたいね、他の男子だったら私に対して君のようなものの言い方はしないぞ。たいていはそうでございますかすみません、貴方様のご機嫌を損ねるような態度は改めますからどうか私目と仲良くしてくださいって感じの下心見え見えな態度でへらへら笑いだよ」
 「そ、そうなのかな」
 何だか香は香で、その美貌故にいらない気苦労を背負い込んでいるような気がする。
 「そもそも、そんなこんなで私には友達が出来ないのよ」
 「そうなの?」
 俺は目を白黒させた。
 香が自分の心情をここまで吐露するなんて初めてのことだったから。
 「とくに彼氏のいる女の子なら絶対に友達にしたくない女第1位ですよ私は。あのね、例えばそういう子と友達になったりすると、その子の彼氏は私に横恋慕して、その子からは私の彼氏をたぶらかした女子高生の風上にも置けない悪女扱いされるし、ふった男子にはお高くとまった高慢ちきな馬鹿女ってレッテル張りで、どちらに転んでも最後は私が悪者にされちゃうんだよ」
 「何というか・・・そんな経験有りだったの」
 「まあ、中学の時は片手で足りないくらいに」
 おいおいホントは足の指まで数えるんじゃないだろうね。
 「俺全然知らなかったなあ」
 「そういう意味で、君は私にとって貴重な例外なのだよ庄一」
  今の一言はちょっと嬉しかった。
「高校生になってからも何回か、そう言う展開があったくらいだから君が水研に来てくれてわたし、正直最初はどうなるかって思ったんだけど・・・それは見事に杞憂だったって言うか、庄一をそこら辺の石ころ共と一緒くたにしたことに、ちょっと罪悪感を覚えたりしちゃったんだ私」
 それはさらにさらに嬉しいお言葉ではあった。
 「そう言えば俺、香とは水研以外の話ししたことなかったなあ」
 「まあいいじゃないの。私の小中生活なんて、そんなに面白い話しがあったわけでもなし・・・私は今の高校が好きだし」
 「そうか・・・そうだよね」
 俺は相槌を打った。
 確かに香の言うとおりだと、そう思えたから。
 俺なんか、おやじの不祥事で逃げるように鷲別へ転がり込んだようなものだもんね。
 「まあ、そういうわけで私としては庄一が、これを奇貨として秋津島さんとうまくいってくれればなんて、そう考えたりしたりしてるわけなんだよ」
 「おいおい」
 何だかお話しが変な方へ行き始めてないか?
 「良いじゃない」
 何故だか香は、断固として言い様で、俺はちょっと首を傾げたくなる。
 「庄一は秋津島さんのこと、意識したことはないの?」
 「そりゃ、ないって言えば嘘になるけどさ。どう考えたってそれはかなりいきなりな話しになるんでないかい?」
 「いきなりだって良いよ。庄一、いつまでも緑川さんの・・・」
 「そんな話しはするなよ」
 思わず俺は、少しばかり声を荒げてしまった。
 そこは例え、浅沼香と言えど踏み込んじゃいけない俺の聖域だったから。
 「いや、するよ!」
 香が激しく抗弁して俺を制する。
 こんな香を見るのは初めてのことで、俺は肝を冷やした。
 「あの人はもう行っちゃった。庄一は出来る限りのことをした。私見てたから。だから、もう緑川さんのことより自分のことだけを考えなさいよ」
 「でもさ、そこにどうして秋津島さんが出てくるんだよ」
 「それは・・・でも・・・」
 「秋津島さんにだって、最後の夏の計画くらいはあったはずだし、それが俺のせいで台無しになるかも知れないとしたら・・・俺、そんなことしたくない」
 「ふーん」
 探りを入れるような声色で香がアプローチしてくる。
 これは、ちょっとばかり用心しないと。
 「でも、実際、君はあの放課後の生物教室での、秋津島穂高の切羽詰まった振る舞いが深く深く心に焼き付いているんじゃないかな?」
 「ちょっと待て、そりゃいったい・・・」
 「私見ちゃったのよ、ごめんね」
 「ど、どうして・・・」
 「あの日はほら、120センチ水槽の水替えの日だったから、庄一は一人でやれるからって言っていたけど、やっぱり手伝ってあげようと思って教室に行ってみたら何と」
 これ以上言う必要はないだろうって顔で、香はため息を吐いた。
 「君は全く、私の期待を裏切らないほどの律儀な男だ」
 そう言う香は真顔で、どことなく上から目線な態度なんだが・・・そうだ、まるで部下に冷徹でありながらも肯定的な評価を下す女上司みたいな雰囲気だぞ。
 「君は彼女との秘密を守った」
 「そんなのは誰だって」
 「そうすることのできない愚か者もいる」
 「でも、それで俺が秋津島さんと云々って言うのはどうにも短絡的じゃないか?」
 「私の推理を否定する君の証言はそこまでかな?」
 「うぉい、そいつはだなあ」
 「つまり私が言いたいのはね。つき合いをかけるとかそう言うことではなくて・・・いや、むしろそうなってくれる方が私としては嬉しいことなんだけど・・・君は良かれ悪しかれ川で転んで秋津島さんに迷惑をかけたんだから、お友達として彼女がより有意義な最後の夏を過ごせるよう手を貸すべきだって言うことなんだよ」
 「あー、そういうこと?」
 何だ色恋の話しじゃなかったのか?
 いや、色恋の話しだったような気がするんだけど??
 何だか、上手い具合に軌道修正されちゃったような気がするんですけど???
「そういうことだよ」
 恋愛話に発展できないなら仕方がないな、この臆病者目とという残念な気持ありありに香は笑った。
 「庄一に、そういった貧欲さがないんなら、せめてそれくらいの気持を持って秋津島さんに接してみせるのが男子たる者の取るべき態度でしょう?」
 「・・・それは・・・ごもっともなことで・・・」
 俺としては頷いてみせるしかない。
 たしかに香の言うことに間違いはない。
 ・・・なんだけど・・・・
 秋津島さんはちょっと恐そうな美人で・・・美少女という可憐さよりもただただ美しいというイメージしかないぞ。なんていうか日本刀のような切れ味を漂わせる怖さがあって、男子を近寄りがたいものにしているんだ。
だから「あきづき型美少女」と呼ばれ、恐れられ、愛され、そして敬遠されている。
 ・・・その秋津島穂高に助けられたというのは運が良いのか悪いのか・・・
 それ以前の秋津島さんとの関わりは、たった一度だけ。
 生物教室の遺伝子シーケンサーの前で思い詰めた顔してたあの日のことだけだ。
 うーん、人間誰といつ何処で関わりが出来てしまうのか一寸先は闇って感じだなあ。
 しかも、その現場を香に見られていたなんて。
 「でもねえ、秋津島さんは、ちょっと近寄りがたいんだよなあやっぱり」
 「あら、私とはこんなふうに毒をまじえて話が出来ているっていうのに?」
 「俺にしてみたら、初めて香りと会った時は、やっぱり緊張したよ」
 「君の目からも私の姿は美少女然と写っていたわけかね?」
 ふふふふんと鼻を鳴らして香が睨みつける。
 睨みつけてるんだけど、不思議と香の目だけは笑っていた。
 「ま、まあ、美しいものを嫌いな人がいて?っていうやつだ。物静かな人だとも思ったけどね」
 「君の言い回しはとてもじゃないが昭和臭が漂いすぎてないかな?」
 「そう言う香の話し方だって平成生まれの女子高生って線から大きく逸脱しているように感じられるんだが」
 まあ、俺と香の会話って言うのはいつもこんな感じだ。
 たしかに浅沼香は美しいのだ。
 それを素直に美しいと言って何が悪い?
 ただ、なんなんだろう。もしもこうして対峙しているのが秋津島さんだったら、やっぱり俺は、こうも気安くぺらぺらとお話しなんか出来ないんじゃないんだろうか?
 何故だか香にはそう言う美少女故の壁みたいなものを感じられないんだなこれが。
 「相変わらず口の減らない埴輪さんねえ」
 今度は口元にも笑みを浮かべて香は呆れたような声で言った。
 「まあね、とにかく私はもう、そうした経験則から、君が感じたとおり寡黙で内気な女の子になっていたわけよ」
 「っていうより装っていたんだ」
 「おかげで悪女呼ばわりされることはなくなったけどね」
 「これからもそういう浅沼さんで通していくつもりなの?」
 俺は尋ねた。
 話しの成り行きで思わず言ってしまったことだけど、香の表情がピクッと固まったのを見て失言だったと後悔してしまった。
 ちょっとどころではないしらけた空気が流れてしまったぞ。
 「ごめん、変なこと言った」
 俺はどうしてこんな事を口に出せるんだろう。
 隣にいるのは「水草の令嬢」と称される孤高の美少女だって言うのに、どういうわけだか俺、香に対しては結構言いたいことを言ってしまえる。
 「相変わらず絡んでくれるんだねえ庄一は」
 困った奴だとでも言いたげに香は俺を睨みつけるんだけど、不思議と怒ってるふうでもない。
 「私だって、そろそろ本当の自分をさらけ出してみたいって思ったりもしてるんだぞ」
「そうしたら良いのに」
 「うん、そうしたいな」
 香は小さくため息を吐いた。
 そして、不意に腰をあげると、両の手を俺に回して抱きしめてきた。
 心臓が止まりそうな気持だった。
 香は俺の耳元で優しく囁いた。
 「君は君のやりたいことをしなさい・・・そして、もしもそれが上手く行かなくて、この世界もやっぱり上手く行かなくて、最後を迎えなくちゃいけなくなった時は私が・・・」
 香の柔らかな感触に力がこもった。
 「私が隣にいてあげるから」
 俺の答えを待たずに香は立ち上がり、背中を向けると談話室を去った。
 香の後を追うことは出来なかった。
 そうするには傍らの点滴架台が邪魔すぎた。
 忌々しい点滴架台だ。
 そして、何よりも忌々しかったのは、ただ動揺して香に声ひとつかけることが出来なかった自分の情けなさだった。

  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *
 
 「ただいまあ」
 玄関を開けると、居間の向こうの台所からカレーの臭いが漂って来た。
 このご時世に、まだカレーを作る余裕があるのは有り難いことだね。
 「お帰り穂高」
 お母さんの、いつもと変わりないお帰りの声も、今はただただ有り難く思える。
 「竹林君のお母さんから電話があったよ。復活したんだって?」
 「そうなのよ、おまけに菓子パン貪り食うくらいの活きの良さで」
 「女子が喰うとか言うな」
 おお、今はこんなどうでも良いお小言すら嬉しい。
 「わかったわかった・・・で」
 「で?」
 「今日はカレーだあ」
 「そうだよ。もう食べられるから手、洗うなり着替えするなりしておいで」
 「手は洗うけど、何で着替え?」
 「その白ブラウスにカレーが撥ねたらどうするのよ」
 「あ・・・ああ」
 私は降参して二階の、私のお部屋へと、そそくさと退散したね。
 とは言え私の白ブラウス、本日の激務で所々煤けちゃったりしてるんじゃ・・・などと危惧を抱き脱いでひらりと返してみれば。
 私、その場に崩れ落ちました。
 さすが年期の入った図書室の本棚。白ブラウスの所々に灰色の怪しい筋がついてるじゃないのお。もちろん黒スカートも。しかも私、こんな格好で竹林の病室・・・それも御家族プラスあずみんのいる病室・・・へ突撃を敢行していたなんて。
 く、黒歴史だ。
 ただ、病室の薄暗さがいくらか誤魔化してくれたかも知れないが。
 それはあくまでも、希望的観測というもの。
 まあ、悔やんでも仕方がないか。
 などとぶつぶつ・・・ああ、またブツブツがツブツブへ、そしてジャンボタニシへ・・・そしてさらに赤いたらこから悪夢の巨大ムカデへと・・・ダメだダメだ。
 私は激しく首を振り、パジャマに着替えてしまうことにした。
 そして、ひょんな弾みでスカートのポケットに手を入れたら・・・・あ・・・
 それが手に触れた。
 くだんのゲノ占の紙片と謎の植物。
 私は紙片を引き出しに放り込むと椅子に腰を下ろし、その植物をつまみ上げてしげしげと凝視した。
 水草。
 だとすれば、これは気中葉とかいう状態のものなのかな?
 植物は私のポケットの中で・・・私のお尻に圧迫されちゃったのかな・・・活きが悪くなり始めていた。
 そこで、急いで下に降りてコップに水を注ぎ部屋へと舞い戻る。
 途中、お母さんに捕捉され「早く食べるわよ」とのお言葉を頂戴したが、あえて無視しておくことにした。
 何てったって、乙女の一大事なんだからね。
 もしかしたら、この謎の植物が私の生命線になる可能性だって無きにあらず。
 カレーはいつでも食べられるけど、謎の植物は待ってくれない・・・ような気がする。
 水を満たしたコップにそいつを挿してやると、何だか目に見えてそいつは元気になり始めた。
 ・・・植物って、こんなに現金な者だったかな?・・・
 まあ、こやつも水にありついて人心地ついてるんだろうから、私がカレー食べてきても恨まれないか。
 途端に私のお腹は空腹を訴え・・・さっきあんパン食べたというのに・・・階下から漂うカレーの香りに誘われるように居間へと歩を進めた。
 居間のテーブルでは、弟の克也(11歳のクソガキ)がまるで飲み物でも飲んでるかの勢いで大盛りのカレーを貪っていた。
 おいおい、そんなはしたない食べ方してるから彼女の一人も出来ないんだぞう・・・ってからかってやりたい気持はやまやまだけど、そう言う私も恋の花ひとつ裂かせていないわけだから・・・もとい、咲かせていないだったわグスン・・・何も言えず、ただ生温かな眼差しを注いであげるだけ。
 と、克也は突然カレーを食べる手を休めて私の方を向いた。
 「姉ちゃんお帰り~」
 な、何だ何だどうしたんだ我が愚弟よ。お前さん、いつの間に人が交わす挨拶を身に着けたんだ?
 「お、おう、ただいま」
 「わりぃ姉ちゃん、水お代わり氷入りで」
 そういうことかい。
 私ゃ、がっくり項垂れたね。
 それでも何故だか、今日はこんな弟でさえ愛しく思える。
 もしも世界が、本当に終わるとしたら、克也はまだ、ほんの11で人生を終えることになるのだから。
 ・・・私はまだ良いか、竹林のせいで、いらない騒動に巻き込まれてるけど、それでも何故だか気持は充実しているような気がするし・・・
 私は克也の差し出したコップを受け取り、ご丁寧に冷蔵庫から氷を取り出してコップに入れて水を注ぎ、テーブルの上に置いてやった。
 「ね、姉ちゃんどうしたの??」
 克也がこの世の者ではない何かを見たという顔で私を凝視している。
 おいおい、優しいお姉さんが、そんなに珍しいのかい?
 「何がよ」
 「だ、だって、こんな優しい姉ちゃん見たのは・・・」
 「だまってたらふくカレーを食べろ」
 私が照れ隠しにつっけんどんな返しをすると弟は、やっぱりいつもの姉ちゃんだって安心したようにカレーにむしゃぶりついた。
 「ほら穂高」
 母さんがカレーをテーブルにおいてくれた。
 「父さんは港にお籠もりなの?」
 「そうなのよ」
 いい加減うんざりだという顔で母さんが頷く。
 どうやら、ここ数週間お船の改装工事で港に雪隠詰めの父から電話があったらしい。
 「ほら、例のエクソダス計画で、避難民をたくさん運ばなきゃならないから、使える貨物船とかタンカーを貨客用に改装しなきゃならないんで大わらわなんだって」
 「ちょっと、そう言う事って気安く口に出しちゃ・・・」
 「ああ、私も同じ事言ったら防秘でも何でもないからって言ってたよ」
 「ってことは、いよいよ西日本は・・・そういうことになるのかな」
 さすがに幼気な弟の前で西日本に人が住めなくなるかもなんて大事は口に出せないもんね。 
 「テレビでやってた人工降雨作戦が上手く行けばいいんだけどねえ。そうしたら直した船は韓国やら華連邦に人を運ぶために使うらしいよ」
 「はあ・・・」
 私はため息を吐いた。
 「まあ、こういうものが食べられるうちに、いっぱい食べておきなさい。克也お代わりは?」
 「するする!」
 この食欲魔神め。
 まあ、でもこの際そう言う愚弟の食い意地の汚さには目をつぶるか。
 「それじゃあ私も・・・」
 「あ、そうだ、そうだった!」
 いただきますを言おうとした刹那、母さんは思い出したように、突然私に怒りの目を向けた。
 「なななな、何?」
 「あんた、制服のスカートに紙か何か入れていたでしょう?」
 ???・・・
 「あ゛」
 「おかげで洗濯一回ダメにしたんだからもう~」
 「あーしまった」
 「今度から気をつけなさいよ」
 ん?
 そう言えば何か忘れているような・・・・
 「あ゛ー!」
 私は思わず、すっとんきょうな声をあげてしまったぞ。
 ああ、秋津島穂高一生の不覚。
 私、あずみんからもらった、幼き日の竹林折檻リストを制服のスカートのポッケに入れたままだった。
 ううう、後から読もうって楽しみにとっておいたはずなのに、ここ数日の緑川幽霊のせいですっかり忘れていたわ。
 「ななな、何よいきなり怪しい雄叫びを発したりして」
 お母さんどころかカレーを貪り続けていた弟までが、とうとう家の娘も(姉も)壊れたかって言うような顔で凝視しているから腹立つなまったく。
 「あ、いやいや何でもないの。さああ~今日は金曜日じゃないのにカレーだぞっと」
 ここはさすがに誤魔化すしかないし、何より私はお腹が減っているのだ。冬の東部戦線のドイツ機甲師団状態なのだ。
 「いただきま~す」
 私はカレーを食べ始めた。
 お母さんのカレー。
 私は後、何回お母さんのカレーを食べることが出来るんだろう。
 そう思うと、ちょっとどころじゃなく、激しく切ない。
 だから。
 私は弟同様に、貪るようにカレーを食べ始めた。
 そんな、女を忘れた私の食欲ぶりに、弟が呆れたような顔で言いやがった。
 「これじゃあ彼氏も出来ないはずだよ」
 ・・・それがどうした弟よ・・・お前も黙ってカレーを食べろ。食べて食べて食べまくれ・・・そうして、お母さんのカレーの味を記憶に焼きつけておくんだ・・・そうすれば、もしも最後の時が来ても、それでちょっとは幸せだったって思えるはずだからね・・・

  *   *   *   *   *   *   *   *   *   *  

ああ、今日は穏やかにお風呂で寛ぐことが出来て何よりだ。
 私は生き返る気分でほっかぽかになって、部屋で一息ついている。
 まあ、これが今までの私の、普通の生活だったわけなのだよ。
 例え第三次世界大戦が世界中を吹き飛ばしてしまったとしても、その最後の瞬間までは、私のそういう生活は続くはずだった。
 あの忌々しい埴輪土左衛門を救出するまではね。
 ううう、思い出したらまたまた妙に落ち着かなくなってきたぞ。緑川の幽霊さん、もしかしたら息を殺して・・幽霊が息をするはず無いわけで、そういう突っ込みはさておくとして・・・私の背後で恨めしい怨念を撒き散らす準備でもしているんじゃないだろうね。
 私は一瞬、背筋に冷たいものを感じたわけだけど、そうそうそんなことを気にしていたら生きてはいけないので取り敢えずは無視することにした。
 とにかく竹林は目覚めたんだ。
 あとはタイミングを見計らって、ヤツがどういう間抜けな考えで川を渡ろうなんかしたのか、出来るだけ穏やかに聞き出してやるのだ。
 それで私の役割は終わるはずだぞ。
 少なくとも、竜吉さんとの約束は。
 いいや、竜吉さんのことだ。
 とっくの昔に、アホな孫から事の真相を聞き出してしまっているんじゃないか?
 いやいやいいや、この騒動の顛末は、それどころじゃなく、つまり、竹林が川を渡ろうと試みたこと自体がすでに竹林だの水研だの緑川さんだのというところじゃない大事へと発展しつつあるような気がするのは一女子高生の妄想なんだろうか。
 私は哀しいことだけど貧相な想像力全開で考えては見るけど、だめだこりゃオーバーヒート寸前だわ。
 手っ取り早くネットにすがりたい気持は山々だけど、さすがにそんなバンザイ突撃するほど私は軽率じゃないぞ。三沢保健医と佐川先生のやり取りから察するに、私はすでに要注意人物Aなんだから、オバリスだのガラス棒だので検索なんてしてごらんなさい。
 あっという間に足がついて、私は運が良くて御用。
 最悪の時は・・・あの三沢保健医の口振りだと、うざくなったら手段を問わず吹き飛ばしてしまえって感じだったからなあ。
 家族もろとも家ごとドッカーンってことだってありえるじゃないか。
 ・・・さすがにそれは拙すぎる・・・
 私は思わずため息を吐いたね。
 机の上のコップの中の怪しい植物。
 お前は、緑川さんの置き土産。
 だったら教えて欲しいものだわ。
 竹林は、水草は語らないって言ったけど、あなたは語るって言った。
 そして、私を導くとも。
 「今がその時だって思うんですけど」
 深夜、謎の植物にブツブツと独り言というか恨み言を呟いている薄幸の美少女というのは絵になるどころではなく、ただただ不気味だ。
 気持がめげ始めた途端、激しい睡魔が襲って来た。
 さすがに今日も慌ただしかったなあ。
 体力だけじゃなく、精神的にも結構すり切れる一日だったのは間違いない。
 これを充実した一日と取るか、散々な厄日と取るかはともかくとしてだけどね。
 取り敢えずは寝ることにしよう。
 そして、明日は午前中は何が何でも起きない。
 二度寝でも三度寝でもして午前中はベッドから出ないんだからね。
 わかったか緑川幽霊。
 私を起こしたり、変な夢なんぞ見せたら良いか?
 あんたが祟ろうが何だろうが私ゃもう一抜けたを決め込んでやるんだから。
 「わかったな謎の植物め」
 そう言って私は布団の中に潜り込んだ。
 そして、小物入れの中から最近使ってなかった安眠マスクをかけて部屋の電気を消した。
 へっへっへ~これなら私、何にも見えません。
 だかしかしだ。
 そうは問屋が卸さなかった。
 奴は来たのだ。
 それも、よりによって午前9時という、私にとっては・・・休日時間で・・・まだ早朝と言っていい時間帯に。
 竹林はやって来たのだ。
それはもう、きっとその時の私は1941年12月8日の真珠湾のような状態で母さんに叩き起こされたわけで、可憐な美少女が迎えるべき穏やかな朝は急降下爆撃の直撃で轟沈する戦艦アリゾナのごとき惨状となってしまったからさあ大変だ。
 私は寝ぼけ眼で、寝癖満艦飾の髪を直し顔を洗い歯を磨いて身だしなみを整え・・・どうせ相手は竹林だからと言うわけにも行かずスカートだブラウスだ何だかんだを引っ張り出し・・・起床22分で出撃準備を整えた。
 「竹林君、外で待ってるわよ」
 母さんが私を責めるような眼差しを向けてくるんだけど、悪いのは私じゃないぞ竹林だぞ。
 むしろ、20分ちょっとで突然の来訪者に顔出せる状態を完成させた私は褒められてしかるべきだった思うんだけどなあ。
 玄関のドアを開けると、そこにヤツはいた。
 相変わらずの間抜け面が。
 なんだけど・・・
 「ちょっと、顔色良くなった?」
 朝の挨拶もそこそこに、私は竹林の顔をしげしげと見てしまった。
 「おはよう」
 あ、埴輪が喋った。
 「入院中は迷惑かけてしまって申し訳ない」
 あ、埴輪が赤面しながらぎこちない愛想笑いを浮かべているぞコンニャロメ。
 「自転車おいたらすぐ帰ろうって思ったんだけど・・・」
 「私が引き留めたのよ~!」
 私の背後で、忌々しいくらいに元気の良い母親の声が響き私は事の次第を把握したのだ。
 この病み上がりの埴輪は、私が昨日鷲別神社に置いて来た自転車を自ら漕いで持って来てくれたのだ。そうして家人に・・・つまり私の親だったり弟だったりに・・・挨拶したらすぐに退散するつもりだったに違いない。
 日曜の朝9時に、秋津島穂高が起床しているはずがないという確信が竹林にはあってのことだったかもしれないが、そうは問屋が卸すはずなく、いい歳こいて天然の我が母親に捕捉され拿捕されてしまったというわけなんだろうね。
 「秋津島さん、今日自転車使うんじゃないかって思ったもんで」
 まったく、何処までも人の良い埴輪だ。
 ・・・こんなんじゃ竹林って、いつも損な役回りばっか押しつけられるばかりなんじゃないか?・・・
 「日曜日だから、まだ寝てるんじゃないかって思ったんだけど、その・・・」
 20分も待ちを喰らったわけだから、私が叩き起こされてのてんやわんやだったってことは竹林にもわかってるんだろう。
 あの「あきづき型美少女」と・・・私にだって周りの男子共がそんな陰口叩いてるくらいとっくに承知してるんだからね・・・揶揄される無愛想な私が日曜の朝寝を台無しにされて、本物のあきづき型護衛艦のようにミサイルやら魚雷やらぶちかますにも似た逆鱗丸出しで食らいついてくるんじゃないかとビビリまくっていたに違いない。
 あー、自分で言ってて身も蓋もないって感じなんだけど。
 間の悪い埴輪で御座いと罰の悪そうにしている竹林の姿は、その時何故だか私の母性本能を・・・私にだって一応あるのよそんなものが・・・くすぐってしまったぞ。
 「ありがとうね、病み上がりなのに」
 それは、自分でも信じられないくらいの優しい口調だったから内心おったまげたどころじゃない。
 「でも、昨日の今日なのに身体の方は大丈夫なの?」
 これまた自分で自分を裏切っているような豹変のしように頭が変になりそうだ。
 「やあ~それが」
 と竹林は、私の心の中の葛藤と動揺を察するでもなく・・・少しは気づけ迷惑千万の埴輪男め・・・それとも照れ隠しなのか、私のような美少女を目の前にしたための気の動転丸出しだというのか、こりゃまいったとでも言いたげに頭を掻いた。
 もちろん悪気がないのはわかっちゃいるんだけど、どうにもこうにも苛ってくるな。
 「いろんな検査とかは寝てる間にすませてたみたいで、朝一番で病院追い出されちゃった」
 いや~まいったまいったってなおやじ顔で竹林は笑った。
 ああ、そうなんだって私はすぐに合点がいったぞ。
 きっと竹林を泳がせるために佐川インチキ教師と三沢偽保健医が後で手を回したんだな、あの人でなし共目。
 「あ、あの~それじゃ、俺、帰るから」
 奴らを思い浮かべた私の顔が余程恐ろしかったのか、それが自分に向けられたものだろうと勘違いしたらしい竹林が、見るからにあからさまなビビリ顔で作り笑いを浮かべて言った。
 「ほんとに、助けてくれてありがとう」
 「あ、ちょっと、ちょっと」
 へっへっへ、こんなチャンスは二度と訪れないではないかと頭上で豆電球が2、3個灯った私は竹林を引き留めたんだなこれが。
 「私、これから出かけるんだけど、竹林君、体調が良いようなら一緒に行ってみない?」
 ここはやはり、何人とて断りようのない可憐で儚げな笑顔を浮かべてやることを忘れてはいけない。
 「は?」
 おおう、埴輪顔の一重瞼は点にもなることが出来るんだとは、こりゃ新発見だ。
 「今日は天気も良いし、私も君のおかげで早起きが出来たわけだし」
 私は「君のおかげで」と言う下りを意味深に強調して眼前の埴輪を笑顔で責め立ててヤッタね。
 傍目でわかるくらいおたおたしている生ける埴輪に少しばかり憐憫の情を懐いた私ではあるけど、ここは何としても首を縦に振ってもらわなくちゃいけないぞ。
 「それとも・・・」
 私ゃとっておきどころじゃない満面の笑みを浮かべてみたけどね。
 竹林にしてみれば、それは一方・・・どう転んでも断り切れないだろう?・・・私は君の命の恩人なんだから、そのお誘いを断ったりなんぞしてみたらもう、君の人生に明日はないぞなんてくらいの脅迫めいた悪魔の微笑みに見えたのだろうかも知れないが。
 それは君の事情であって、私の立場としては好意的にお誘いをかけているに過ぎないのだよウフフのフ。
 「私と一緒に行くのはいや?」
 「ととととと、とんでもない!」
  うむむ、こりゃあ思ってもみないほど面白い反応を示してくれるじゃないか竹林庄一。
「でも俺、こんな格好で、秋津島さんと釣り合わないような」
 なるほど、清楚にバッチリ硬く決めた私に対し、竹林はジーパンに辛子色のTシャツ。
 それも胸のど真ん中に( ̄∇ ̄)/ってなアホどころじゃない顔文字がプリントされてる。
 おまえ、よくそんなで自転車漕いできたなって突っ込んでやりたいところだけど、まあ、それもやっぱり竹林の事情だからどってことないぞ。
 「私は別にかまわないけど」
 それはそれはきっぱりと自慢の胸を・・・そうだよ竹林、お前が意識不明の最中に病室でモミモミしてくれた私の聖域だよ・・・張って竹林を睨みつけた。
 「君が気後れするって言うなら着替えて来ようか?」
 「いっ、いや、そのままでけっこうです」
 竹林が涙目になってる。
 うんうん、これは良い、ここまでは、そしてこれからも今日のところは私が完全に主導権を握ったわけだな、ワッハッハ。
 「それなら行きましょう。竹林君、服装なんかで気にすること無いよ」
 いつまでも何処までも追い詰めるのは可哀想なので、私は優しく微笑んで竹林の緊張を解してやることにしたんだけど、やっぱりこれも悪魔の微笑みに見えたかも知れないな。
 「はあ」
 竹林も覚悟を・・・私と連れだって歩くのに、それほど覚悟が必要なのか?・・・決めたようで、小さくため息を吐くと、俺はもう、まな板の上の鯉だとでも言うように歩き出した。
 まあ、そんなこんなで私と生ける埴輪はバス停目指しててくてくと歩を進める。
 空は曇り。
 風はないけど空気が冷たい。
 私と竹林は無言で歩き続ける。
 第三次世界大戦で世界の半分が吹き飛んでから四週間後の日曜の朝。
 私達は一見、今までと変わりない暮らしをしてはいる。
 だけど、これからそれは、少しずつ変わり始める。
 陽の光を失い。空気の暖かさを失い。今まで何の気なしに食べていたものが、やがては口に入らなくなる。そして、やがては清浄な空気も。水も。土も。
 いつそれが訪れるのかはわかりようもないけれど。
 その時私は、一体何をしていることだろう。
もしかしたら、緑川さんだけは知っているのかも知れないけれど。
 「あの・・・」
 気持ちが暗くなり始めていた私の隣で、竹林がおずおずと声をかけてくる。
 「え?あ?ななな何?」
それは、物思い・・・それも果てしなくマイナス思考の・・・に耽っていた私にとって、あまりにも不意打ち過ぎた。こここ、コイツ私のアンニュイな横顔に気づいて声かけたんだろうか?
 だとしたら許せんぞ竹林庄一。
 「ああああ、あのね」
 ところが竹林にはそんな気持はさらさら無かったようで、むしろ私のビックリ裏返り声に度肝を抜かれたって感じだった。
 竹林はこれ以上話し続けて良いものかどうか見当がつかないようで、困り顔を私に向けている。
 私は小さく咳払いした。
 「ごめんごめん」
 ここはやはり、素直に謝って竹林の好感度を奪回し、私の役に立ってもらわなければ。
 「何か私に聞きたかった?」
 「いや、そのですね。どこへ行くのかなあなんて思ったもんで」
 「あ、な~る・・・・実は本屋さんに行こうって思ってたの」
 「本?」
 おいおいなんだその顔は。まるで私が余程本から縁遠いおつむの持ち主だとでも言いたげな面持ちじゃないか、許せんぞそう言う態度は。
 だがしかし、ここは我慢のしどころだね。
 「うん、できれば水草関係の本で調べたいことが・・・」
 「み、水草??」
 おいっ!私の可愛い唇から水草って単語が飛び出すのがそんなに驚愕すべき事なのか?
 まあ良い、ここで聞いちゃうか。
 「竹林君、オバリスって知ってる?」
 解答は即座だった。
 「オバリス?ルドビジア・オバリス?」
 「気中葉はクリーム色で赤味を帯びた茎に丸葉で緑は美しく、裏はやはりクリーム色がかって、何とも綺麗で鮮やかな薄赤色の・・・」
ううん、だんだん私、興奮してきたぞ。
 「間違いなくルドビジアのことだけど・・・」
 「ややこしいなあ、水草って二つも三つも名前があるの?」
 「ま、まあ、俺もそんなに詳しくないけど、どんな水草から派生したかわかるようにって感じなのかも。もちろん学名はあるんだけど、さすがにそこまで覚えるのは・・・」
 はははははと照れ笑いする埴輪であったが、やがて合点がいかないぞってな顔になったね。うん、君の言いたいことはわかるぞ私にも。
 「なんで、水草のこと知ってるんだって顔してるね」
 「や、何か、何というか、水草ってあまりにもマイナー過ぎる世界だから」
 「このうんちくは、まあ、君が入院している間に浅沼さんから伝授されたの」
 「か・・・浅沼さんから?」
 あ、こいつ今、香って言おうとして慌てて訂正したな。しかも何だ?何で浅沼香の名前が出たところで赤面なんぞしてくれるンじゃ?
 おまえさん、彼女と何かあったっていうんじゃないだろうね。
だが私は、顔色ひとつ変えずに竹林に笑顔を向けて見せたね。
 「君の水草水槽も見せてもらったよ」
 「あ、ああ~」
 何とも気のない返事を返して寄越す竹林の顔に陰りが浮かんだ。
 「あんまり綺麗じゃなかったでしょう」
  それは、あの水槽では俺の実力の三分の一も出しちゃいないとでも言いたげな無念の面持ちと言うところかな?
 「事情は聞いてるけど、あれだって私みたいなのにしてみればすんごく綺麗だったよ」
 「そうかな」
 「私の知ってるキンギョモ・・・カボンバだったっけ・・・あれも丁寧に扱えばあんなに綺麗なレイアウトになるなんて新発見だったよ」
 「そ、そお?」
 ウシシ、竹林めまんざらでもないって顔になってきたぞ。
 もっとも、あの水草水槽はお世辞抜きで確かに見応えのあるものだったからなあ。
 「それに何より、君は手に入る身近なものでいろいろな工夫が出来るヤツなんだなって、ちょっと見直しちゃった」
 「あはは、以前どう思われてたかがとても気になるんだけど」
 あ、埴輪が一重瞼を三日月目にして頭掻いて笑ってる。
 「それはまあ、言葉の綾というものだけどね。それに、浅沼さんから以前の水草水槽も見せたもらったし」
 「以前の?」
 「浅沼さんがデジカメに写しておいたヤツだよ」
 何気なくそう言うと、竹林は突然しんみりした顔になった。
 私何かまずいこと言った?
 「そうか・・・香、撮しておいてくれたんだ」
おーい、あんまりにもしんみりしすぎて、とうとう君は浅沼さんを香って呼んだぞう~!
 「竹林君が浅沼さんと親しかったなんて、初めて知っちゃったよ」
 「え゛」
 おいおい、何おどおどしてるんだ?
 「クラスの男子共に知れたら、ただじゃすまないわねえ」
 私が少しばかりジェラシーを・・・おい穂高、相手はただの埴輪なんだぞ・・・覚え、意地悪げ意味ありげににやりと笑って見せた。
 少しばかりの沈黙。
 そして竹林は言った。
 「秋津島さんと、こうして歩いているのことも、バレたら大変なことになるって思うんだ」
 「はあ?」
 「いや、秋津島さんも相当男子に人気があるんだよ」
 「そ、その辺りは風の噂で・・・」
 いかん、どうにもこうにも調子が狂うぞ・・・何だか恥ずかしくなって来るじゃないか。
 「だからその・・・」
 「私と歩くのはご免被りたいと?」
 あ、何だ何だ、胸が痛いぞ。鼻の奥がつんとして目がウルウルしてきたぞ。
 「そんなに私と歩くのが命がけだって言うの?私は・・・」
 浅沼香のことで竹林に因縁着けたのは私だってのに・・・だからコイツに罪があるわけじゃないんだけど・・・だけど、何故だかその一言が胸に突き刺さってくる。
 「あ、いや、その」
 竹林が涙目で、何とかこの場を取り繕うとしているわけだけど、下手な追い打ちで更なる燃料投下になりかねないことを予測してか、なかなか次の言葉が浮かんでこない様子なのがちょっと面白いが、私の涙は瞳の中でついに決壊し大粒の涙となって頬を伝う。
 「私だって、別に変に意識して無愛想で気位の高そうな女演じてるわけじゃないんだよ。地なんだよ。もともとこんな性格の女なんだもん」
 「い、いや、わかります。よくわかります!」
 「私だって人当たりの良い天真爛漫な女の子になりたいけど、そんなの気恥ずかしくてとても無理なんだもん。今の無愛想な自分が一番居心地が良いんだもん」
 「うっ、うわわわ、良いです良いです、そのままの秋津島さんが一番良いですから!」
 あうあう涙で目が潤んで、何もかにもがぼやけて見える。
 その中で、ああどうして良いのかわからないとあたふたしている竹林の輪郭が謎の異次元人のように見えて面白いんだけど、私はとうとう勢いに負けて子供のように声をあげて大泣きしていた。
 いろいろな思いが噴火する火山のように吹き出してくるのを止められない。
 第三次世界大戦のせいで、少しずつ変わり始める私の日常。
 私を放ッポリ出して男漁りに奔走する友人達・・・おまえら取り残された私の寂しさを、少しくらいはわかってくれないのか?
 いつもは週三くらいで晩ご飯食べに家に帰ってくれていたお父さんは港に軟禁状態でお船の改装工事・・・私、もう何週間もお父さんの顔見てないぞ・・・もうウザイなんて言いませんから早くうちに帰ってきて欲しい。
 空は曇り、空気は冷たくなり始め、私達が迎える夏は今までのとは雲泥の差だ・・・寒い中でアイスとかスイカとかかき氷食べたってなんにも美味しくなんか無いじゃないか・・・最後の夏くらい、茹だるくらいの熱さの中で、ああ最後の夏を思いっきり楽しんだぞって充実感を得たかった。
 そして幽霊だのスパイ合戦みたいだののど真ん中に放り出された私の青春はもう、この先何処が終着駅なのか全く全然明日が見えない。
 畜生目、私このままじゃ死ねない!
 寒さの中で凍えて死ぬのか、飢えの中で干からびて死ぬのか、放射能に侵されながら血を吐いて死んでいくのか、そんな、どんな死に方するのも私は恐い。
 死ぬのは恐い。
 大人達は何とかなるなんて言ってるけど、大人達が大丈夫って言って大丈夫だったことが今まであるか?
 私は恐い。
 どんな最後になるのか、すんごく恐い。
 さすがにこの胸の内は、口には出せないが、多感な一女子高生の胸の内には、これくらいの激しい葛藤があるのだ。
 おい竹林、お前も少しは人の心があるって言うなら迷える子羊を・・・自分で自分をそう例えるのは穴があったら飛び込みたいほど気恥ずかしいが・・・救って見せようなんてくらいの気概を示してくれたらどうなんだい。
 さすがに胸の内を吐露しない限り、竹林にそれを望むのも酷というものか。
 私が大泣きし、竹林がおろおろしている傍を、何人かの大人達が通り過ぎて行く。
 大人からしてみれば、こんな風景は関わってはいけないガキんちょ同志の痴話喧嘩ってところなんだろうな。
 ああ、でも、所かまわず大泣きしてみるのも結構気持の良いものなのかも知れない。
 なんとも身勝手なお騒がせ女子高生だと言われてもしようがない。
 「ふう~」
 私は泣くだけ泣くと、風船から空気が漏れて萎むように、心の中にたまっていたものが薄らいで行くのを感じた。
 「うわわ、ごめん秋津島さん」
 ガシガシと袖で・・・ああ、またお気にのブラウスを台無しにしたような気がする・・・涙を拭うと竹林は万策尽きた・・・まあ、君はただ狼狽えていただけなんだが・・・とでも言うような涙目をしている。
 「ああ、こっちこそゴメン」
 私はスカートのポケットからティッシュを取り出し、竹林の眼前で、思いっきり鼻をかんで見せた。
 ・・・ふん、竹林目、これで少しは幻滅してくれるだろう・・・
 「最近、色々たまってたことがあったもんで」
 「いや、俺、無神経だったよ」
 「ううん、良いんだ」
 私は項垂れて竹林の肩に手を置いた。
 今さらながらに私は思い出していた。
 泣きたいのは私だけじゃない。
 竹林にだって、たくさんあるはずなんだ。
 お父さんのことも、緑川さんのことも、一番大好きなはずの水草が失われることも、たくさん、たくさん。
 だから。
 「私こそゴメン」
 竹林は無言で小さく首を振った。
 私達は歩き始めた。
 一泣きしたせいか、少しだけ気分がすっきりしていた。
 バス停に着くと、竹林が私を見てにやりと笑顔を見せた。
 何だ?
 「さっきのティッシュちょうだい」
 「は?」
 「さっき鼻かんだやつ」
 「なっ、何よ?」
 「ちょうだい」
おいっ、おまえ、さっきちょっと良いヤツかって思ったけど、もしかしたらとんでもない怪しい趣味の持ち主なんじゃないだろうな。
とは言うものの、少しばかりの申し訳なさがある手前、この程度の怪しさは許容せねばなるまい。
 「どうするのよ、こんなの」
 私がポケットにしまっていた鼻水まみれの丸めたティッシュを差し出すと、竹林は指で摘むでもなく普通に受け取り時刻表のポール脇のゴミ籠に放り込んだ。
 「哀しいことはポポいのポイだ」
 私は吹き出した。
 「ばっ馬鹿じゃないの?!」
 なんつうオヤジギャグじゃい。いや、昨今のオヤジ達とてこんな身も蓋もないギャグは使わないぞ。
 「グァハハハハ」
 私の罵倒を他所に、竹林は一人壺を突いたように快活な笑い声をあげていた。
 何ともまあ、こんなアホなヤツ初めて見たわ。
 とは言いつつもだ。
 私も知らずのうちに声をあげて笑い転げていた。
 道行く人達がどう思ってくれてもようござんすってな気分だった。
 何だか知らないけど、とても気持ちが良かった。
 
 *   *   *   *   *   *   *   *   *   *


2015/01/13/Tue 16:35:57  「長雨の後に君と」/CM:0/TB:0/
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