§ 「その日の夜に、月を見上げて」 二十一
その後の1年、日本は孤立を強要された。 通信については、障害こそ多かったものの、断片的に交わすことは可能だった。 まずわかったことは、重工業用ステーションが無事だったと言うこと、そしてアメリカが国としての体裁を維持していたってことだ。 もちろん被害は大きかったけど、さすがに大国、自分のことは自分でまかなえてしまう底力があった。 さらに、オーストラリアも都市部への爆撃から免れていたし、ベトナム、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシアなど、東南アジアの諸国との交信にも成功していたんだけど・・・大韓連邦と台湾は、核攻撃でやられてしまったらしい。 その他の国や地域との交信もあったのだけれど、それよりもまず、自分の国を何とかしなくてはならなくなったんだな。 問題は山積みだった。 食糧難、舞い上がった粉塵のための日照の不足、天候不良・・・漁業に至っては出漁など望むべくも無しだ。 ただ、時期的に作物の収穫期が終わっていたことが、ちょっとした慰めにはなったのだけど、政府は戒厳令を敷き、食料、燃料、各種エネルギー供給の統制に踏み入らなければならなくなってしまった。 それでもだ。 日本は地球化技術やら地球工学やら何やらを総動員して関東平野を始めとする日本各地にパラテラフォーミング(擬似的地球化)技術を応用した大規模な耕作用のドームを作ったりして飢餓に備えた。 核攻撃後の放射能の汚染については、降り続ける雨の自然の除染に期待するしかなかった。 列島間の往来は絶望だったけど、海と空のご機嫌が直るまでにはそれぞれが生き残るために悪戦苦闘しなきゃならなかったってことだな。 それでもだ・・・まあ・・あんまりはっきりと口にするのははばかりがあるのだけど・・・この鎖国状態は日本にとっては幸運だったとも言える。 飢えた隣国からの難民が皆無だったことが、国内の安定化に貢献していたってことがだ。 残酷な話しだろ? でもさ、もしも日本が手荒く被害を受けて、隣国に助けを求めたとして、彼らはそれなりに衣食住が維持できてたとしてだ。 歓待してくれただろうか? 日本人が着の身着のままで隣国に足を向けたとしたら、彼らはどうする? 言わずもがなだよ。 海が荒れ狂い、空が荒れ狂い、日本は孤立したけれど、難民という要素には恐怖せずに国内の安定化に専念することができたという事実は決して否定できない。 もっとも、在日米軍とその家族御一行様はその限りではなく、米軍としても耕作ドームの建設なんかに労働力を提供したりして、けっこう有り難がられたらしい。 なんて感じで、日本人は始終腹をすかせてはいたけども、国としての体裁は維持できたというわけなんだが、もちろん餓死者も出た。 国内の一部不満分子による暴動や争乱、自殺、疾病の激増で命を落とす者が絶えなかったのもまた事実だ。 生き残るのは、決してお気軽な事象ではなかった。 その1年間で1000万近い死者が出たこと・・・その大部分がお年寄りと乳幼児だったことは忘れちゃいけない。 そして、世界も同様の悲惨に溢れた。 爆撃と核攻撃から生き延びた人達。 40年代にあっても、未だに後進国、農業国と呼ばれていた国々の人達。 彼らは自称先進国の・・・ただ単にお金と技術を持っていて食うに困らないというだけの国々ではあるのかもしれなかったが、彼らの食料技術支援がそれらの国々の生存を維持していたことは紛れもない事実だ・・・援助が途絶えたことによる飢餓と疾病、生活物資の欠如に端を発した隣国との紛争、国内暴動の中でその存在を消失していった。 それぞれの国が、それぞれの事情によって崩壊していった。 1年後。 海が凪を取り戻し、空がそよぐ風を思い出したとき・・・・それを感じることができたのは46億の人達だけだった。 それ以前の地球の総人口は78億だったことを思い出してみてくれ。 そののち日本は近隣諸国への救済に乗り出した。 まるで、当時の非情ぶりへの贖罪を示すかのように。 けれど・・・すべては遅すぎたっていうことなのかな・・・・人々は細々と命脈をつないではいた・・・でも、そこにはかつての文明は存在していなかった。 それ以降、日本は米国、EUとともに復興委員会を結成して爆撃後の世界で右往左往し始めたってな訳だが・・・忘れちゃならないことがあった。 月からの爆撃が何だったのかってことだ。 月基地からの通信途絶に始まる一連の事変についての検証と対策を講じなければならなかった。 月で、一体何が起こったのか? あの、軌道上に広がった空間は? そして、突然の爆撃の終わりが何を意味していたのか? 軌道上の重工業用ステーションは健在だった。 彼らもまた、1年に及ぶ地球からの補給の途絶で地獄を味わっていたんだ。 もともと完全な閉鎖系の環境ではなかった重工業用ステーションは試験運用中の耕作コロニーの拡張で食をつないでいた。 なにしろ3000人以上の大所帯だった重工業ステーションは元々が軌道上での工業試験基地だったのが、連合宇宙軍の創設で地球近傍の活動拠点としての機能を加えられて恐竜的肥大を強要され、軍艦の寄港、整備、乗組員の休養なんかも引き受け、果ては工廠施設での艦船の建造にまで手を染めるっていう軍事的色彩を強めた宇宙要塞のようになってしまったわけで、宇宙空間での農耕技術の実証スケジュールは遅延もまた遅延って状態だったんだから。 それでも連合宇宙軍は残存の艦艇数隻を維持運用していた。 地球からの補給が再開し、なんとか月まで辿り着ける体裁を整えた第一次の派遣艦隊が出撃したのは爆撃から5年後の2049年8月4日。 日本国航空宇宙防衛軍から連合宇宙軍に拠出されていた特設巡洋艦「いちじくまる」「第三よいちまる」 アメリカ宇宙総軍艦隊から拠出の宇宙戦艦「アトランティス」 哨戒巡洋艦「イーグル」 「アレーバーク」 補給艦「フィラデルフィア」で編成された艦隊が月を目指した。 そして、最初の発見があった。 月の軌道上で静かに漂う中国宇宙軍の戦艦「長征」の姿がそこにはあった。 派遣艦隊は「長征」に接舷し、艦内を捜索し・・・・乗員48名全員の死亡が確認された。 艦長の遺体は艦橋の艦長席に固定され宇宙服の中で半ばミイラ化していたらしいけど・・・その手元の日誌の中に「長征」の辿った数奇が綴られていた。 「長征」はあの日、爆撃が始まる直前に命令を受けて哨戒巡洋艦4隻と共に、出現した空間への突入を試みていた。 爆撃が始まったのは通過から数分後のことで、彼らは月から放たれる砲弾の進路上にあり、慌てて離脱を試みたのだけれども3隻の哨戒巡洋艦が砲弾の群れの中で破壊された。 「長征」は生き残りの哨戒巡洋艦「西安」と共に一度月から大きく離れ、事態を把握した「長征」の艦長は再度月への接近を試みた・・・ 「我々は確認した。 その投射体は、明らかに月の北側プラトークレーターの4箇所から発射されている。 発射速度は速く15秒前後に一度発射と見られる閃光が確認できる。 大型のマスドライバーなのだろうか? 発射の際にプラズマ光が観測できるが詳細は不明だ。 我が艦隊は投射体の弾道から逃れるために大規模な進路の遷移を実施してしまったが、それは大きな悔恨を伴い、私の判断の誤りを認めざるを得ない。 進路を変えるべきではなかったのだ。 迷わず月軌道に乗るべきだったのだ。 しかし、今からでも攻撃は間に合う。 我が祖国はすでに、多数の閃光に見舞われてしまいはしたが・・・・まだ隣国の日本と大韓連邦は被害を免れているではないか。 我々は、このふたつの国を救おう。 このふたつの国。 決して我が祖国とは友好の絆で結ばれているとは言い難いが・・・私は未来への希望を、日本と大韓連邦の二国に託そう。 西暦2044年11月3日 中華連邦共和国宇宙軍第2艦隊旗艦「長征」艦長 王華徳宇宙軍大佐」 慌ただしく綴られた日誌を目にし、派遣艦隊の人々は声を失った。 彼らはただ泣いたという。 この王大佐の最後の日誌を目の当たりにし、日本を救った中国の宇宙戦艦の栄誉を伝えるべき彼の祖国は、連合宇宙軍自らの手で焼き払い、砕き尽くしてしまっていたんだ。 呉市を地獄に突き落とした中国。 日本へ押し寄せつつあった地獄を妨げた、中国人の宇宙艦乗り達。 この報せを知った日本人は、やりきれない気持でそらを仰いだ。 そして、その後、間を置かずしてエドルの存在が確認された。 長い長い、月の占有者との戦いが始まったっていうわけだ。 |


